音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い(41)

 『リッチマン、プアウーマン』最終話で、獄中の朝比奈恒介が日向徹に告白した言葉は、夏井真琴に対する「嫉妬」でした。恒介が「真琴に自分の日向徹を奪われた」と感じた、という意味合いだったようですね。──と、ここで、ぜんぜん詳しくないのでほんとのビートルズ・ファンに「ぜんぜん違うぞ」と叱られるかもしれませんが書いてしまうと、ジョン・レノンの前に突如?現れたオノ・ヨーコに対するビートルズの他のメンバーの感情というのは、ここでの恒介の嫉妬心に近かったのかな、とふと思ったのでした。

 嫉妬。最大の親友を裏切る朝比奈恒介のおぞましい行為の素として、やはりこの語がキーワードとなりました。嫉妬とは、一人の人間の中で、そのコントロールがひとたび狂うと、それがその人間の行動に及ぼす負のエネルギーたるや、思いのほか広汎で大きいものとなりえます。実に実に醜悪です。付録的に、NEXT INOVATIONの3人目・遠野秋洋の策略も描かれました。「一度でいいから日向と朝比奈に凄いやつと思わせたかった」というのが、日向を騙し、朝比奈をも陥れたことの理由だった…。ただただ呆れるばかりです。──以下、「嫉妬する」の語を、単に「嫉妬心を抱く」という意味ではなく、この種の醜悪な負の行動エネルギーとして顕現する意味に用いることにします。──もちろん、何かに秀でた人間に対する、そうでない(と自覚する)側の羨望の気持ちというのは、ごく自然に起こりえます。そこまでは当然だし、防ぎようもないし、防がなくてはならないものでもない。問題はその「出方」でしょう。例えば「憧れ」として出れば、自分もそれへ近づくべく努力するなど、昇華の行為・行動につながります。あるいは、よく考えれば実は自分にとってそのような感情は本来不要な、無意味なものだったということもありえます。そこに気づけば、嫉妬の対象を過剰に意識していた自分の滑稽さにも思い至り、対象からよい意味で離れるとともに、醜さの素となっていた感情も消すことができる。少なくとも他人を巻き込まずに済む。すなわち、すべては「嫉妬する側」が乗り越えるべき問題であるはずなのです。今回も、日向と朝比奈の面会シーンで、ごくごく当然ながら、日向の方は朝比奈に対して一切、「僕も図に乗り過ぎていた」などと謝ることはなかった。対する朝比奈は深く深く頭を下げた。双方のあるべき姿がまことにストレートに描かれていて、好ましい場面でした。

 ところがどういうわけか、これまで僕が嫉妬について見聞き読んできた、あるいは実際に経験してきたものの多くは(たまたま巡りあわせが悪かっただけかもしれませんが)、「嫉妬される側」の言動が「嫉妬する側」を傷つけたからだというような、「嫉妬される側」の非を見いだし「嫉妬する側」にシンパシーを寄せる、といったものでした。あるいはそこまで行かずとも、「嫉妬する側」の嫉妬心の克服に寄り添うことはあっても、「嫉妬される側」の被害性または「嫉妬する側」の加害性という本題がスルーされてしまう。──『ハラスメントは連鎖する』(安冨歩/本條晴一郎、光文社新書、2007年)は、嫉妬論というのとは違うのですが、ここで僕のいう「本題」に近いものに焦点を当てている、数少ない本の一つだと思います。── あるいは「所詮、人間というのは嫉妬する動物なのさ」といった消極的肯定のもとにあるものもよく見かけます。今日、「いじめ」や「差別」を消極的にでも公に肯定すれば、良識を疑われることは間違いないでしょう。それならば、「嫉妬する側」の行為にも同様の良識を働かせたいと僕は考えます。そもそも、「嫉妬する」側の行為/言動がそのまま「いじめ」や「差別」の行為/言動となっているということも往々にしてありますよね。本作においてさえ、日向が朝比奈の裏切りに遭って会社を追われるときも、いわゆる「世間」の声については「驕れる者は久しからず」「どうせ、裏であくどいことをしていると思っていた」などという描写だったと記憶します。ただ、本作ではもちろん、バッシング対象の日向徹その人が主人公ですから、視聴者はそのシーンにおいても「事実はそうではない」と知りつつ見ることができるのであり、そこが救いとなっているところがいいのですが。

 さて、言いたいことは、『リッチマン、プアウーマン』が良かった、ということのはずなのですが、何か書くとなるとつい、その正の部分を直に書くよりも負の部分について上述のように長く言及することになってしまいました。何といっても、日向徹のキャラクター、それを演じきった小栗旬、夏井真琴=石原さとみのこぼれんばかりの魅力、そして二人の関係…、これらこそが本作のすばらしさのメインでしたね。最終話の空港での台詞も、徹は真琴を引き止めるのか背中を押すのか…後者なのですが、それが、別れを惜しみつつもそれぞれの歩む道を讃える…という「良い別れ」の典型を描くのではなく、仕事も恋愛も両方選べばいい、と、新興IT企業の才人であれば遠く離れる恋人に言うとしたらそうしかなかろうという理想としての、実に具体的な「愛の言葉」になっていました。徹が真琴との交流を通じて「自分の気持ちを言えるようになった」という典型だけに留まらず、その「気持ちを言う」言葉の内容がIT才人の彼にしか言えないような具体性をもつものであった…。優れたフィクションの条件ともいえる「フィクションの自己内活性化」が、実にさらりと成されていて、心憎いほどすがすがしいシーンでした。