音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (22)

 「言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (33)」で、手拍子の話題を書いていて思い出したのが、数年前に書いた以下の拙文です。詳しい説明は省きますが、勤務先高校にも校内コンクールのようなものがありまして、その感想(批評)を書いた文章の一部とだけ言っておきます。この場に馴染むように、適宜手を加えてあります。

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 ここに書く文章は、僕が当日、すべての生演奏に接したことに刺戟されて生まれました。そういう一期一会の出会いから、僕の印象に残った点について書いたものです。ですから、ここに挙げていない演奏を「よくなかった」と感じたのでは決してありません。むしろ「僕の耳=アンテナは、ここに挙げた演奏のよさしか感知できず、他のよさが解らない程度に鈍かった」とも言えます。もし他の人達と話題にするときはこの点を必ずご留意ください。何年か前、同様の文章を書いたとき、ここに挙げていない演奏を悪く言ったかのような誤解を受けたことがあったようなので、くれぐれもよろしくお願いします。

が、誤解の可能性があっても書き伝えたいことはあるのです。「みんなそれぞれよかった」というのは一面の真実でしょうが、僕という一個人がそう感じた、と言うと嘘になる。コーヒーに譬えるなら、嘘というミルクで薄めた文を書いてもしょうがない。誤解されてもブラックのまま正直に書きます。

 ○×の「六甲颪」。それは、この曲を歌・音楽として、おそらくそれに最もふさわしい「無伴奏男声斉唱」という形態によって、フルコーラス聴くことができる…という史上類い稀なる機会のはずでした。ところが、開始早々安直な「ノリ」による「手拍子」の雑音に荒らされてしまった。怒りに震えつつも成す術はありません。

幸い、○×のみなさんは、2番3番と進むにつれサビの声量を徐々に増すという造型(特撮&アニメソング歌手・子門真人氏が得意とした歌唱法)も見せつつ、動じず媚びず淡々と歌いきってくれました。選曲だけでも十分“特別企画賞”ものなのですが、アイデア倒れになることなく、コーラスとしても一定以上でした。改めて拍手を贈りたいと思います。

“雑音の混入”が本当に悔やまれます。「誰が叩き始めた?」「手拍子した者一人一人の責任だ」などと陰険に言いたいのではありません。人はひとたび群集の中に入ると安手の愚かな行動に無思考に流れていってしまう、その危険性について言っているのです。繊細な舞台の上の出来事を平気で台無しにしてしまう悲しさについて言っているのです。

音楽とは本来“体のノリ”ではなく“心のノリ”でたのしむもの。「六甲颪(のような曲)→手拍子」といういかにも型にはまった反応は、昔の指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが「音楽は自由の魂だ」と述べたその精神から最も遠いものでしょう。

そういえばトスカニーニは母国イタリアのファシズムに抗してこの言葉を発したのでした。「定型依存の受動的で無思考な群衆的・全体的行為」について考えるとき、当時と現在の政治状況の(相違性も大きいのは当然としてなお)共通性に視点が合わざるをえず、何とも空恐ろしく、悪寒が走ります…。

「それはあくまで(小西)一人の一つの考えで、おしつけはよくない」と?…。メジャーなタレント歌手のコンサートなど、そういうノリが常識と化している場には、僕の方が行かなければ済むことですが、このコンクールは違う。だから「正しい聴き方」や「禁止」を言うのではなく、「お願い」になります。どうか、せめて演じ手の側が促さない限り、手拍子はやめてほしい。お願いだから、やめてほしい。

 

注:トスカニーニ自身はオーケストラの団員に対しては暴君のように振る舞ったことは有名です。煩雑になるので詳述は避けますが、単純に彼を賛美したいのではない点のみ、ひとこと。

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「手紙」を歌った2人の場合、「演じ手側が促」したのでした(苦笑)。上記拙文は、今読んでもその点についての譲歩が我ながら苦しい。本来なら、演じ手側に対して「手拍子なんかやめとけ」とはっきりと言う方が「教育的」なのでしょう…。