音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(7)

 こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。

 

  森達也『A3』(集英社インターナショナル、2010年)

 

 「オウム真理教の側から社会を撮った」2つの映像作品『A』『A2』に続く完結編。ただし、今度は活字(本)です。500頁余りながら、一気に読めました。著者渾身の一冊。著者自身も2月5日付のコラム No.131 でそう語っておられますね。ところが売れ行きはあまりかんばしくないと聞きます。『A』の森達也がオウムについて新刊を出した、となれば即買必読ではないかと思うのですが…。

 

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側近たちは彼がすべてを管理していると思い込む。自分たちはすべてを管理されていると思い込む。主語を失った過剰な忖度が駆動するのは、そんな瞬間だ。

 その意味では僕は、自説を大きく曲げるつもりはない。ただし微調整はしなければならない。一審弁護団が使った「側近の暴走」という言葉の解釈が、もしも「麻原彰晃の意図とは別に、側近たちが勝手に“良かれ”と思い込み、麻原の知らぬあいだに様々な事件を起こした」とのことであるならば、早川が言うように、やはりそれは違うのだろう。麻原は知っていた。あるいは容認した。肯定した。その程度の加担は間違いなくあった。

 とても微妙だ。でも微妙だからこそ重要なのだ。安易に四捨五入してはならない。

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(175・176頁)

 

 

 主語を失った過剰な忖度──本書の主題であるオウム事件に関して言えば、麻原の意図に「逆行」した忖度ではありえず、さらに上記の通り、森は単純な「側近の暴走論」は斥けていますから、本書の主旨からは離れてしまうのではありますが──私はこの一節が目に入って、行を追う目が一瞬停まりました。本人のためだと言って、本人が嫌がることばかり仕掛ける。ときに(しばしば)教師が生徒にする「指導」の少なくない部分がそのようなものでしょうし、この私も、どれほど気をつけていても加害側として“構造的に巻き込まれている”場合があっただろうし、ありえるでしょう。しかしそれより何より、その逆に、この私自身がそういう言動・行為を執拗に被った経験があったからです。一般的な人間の通常の注意力、想像力が働かない、そしてそのことに当事者たち自身が気づかない、いやむしろ十分に注意/想像ができていると思い込んでいる。そういう中で為される「過剰な忖度」ほど、人を苦しめるものはありません。