音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(3)

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多くの人から寄せられる質問に、なぜ(-1)×(-1)=1なのかというのがあります。貯金と借金を考えたり、未来と過去を考えたりといろいろな説明の仕方がありますが、もっとも究極な答えは、

 

そのように決めたから

 

ということです。えー、と思われたかも知れません。しかし、計算のルールというものは、あくまでもルールですから、人間が決めたものなのです。

──宇野勝博、菅原邦雄『きらめく数学』(プレアデス出版、2008年、11頁)──

 

 

 こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。「数学の一般啓蒙書」といってよい本書ですが、第1章の冒頭からいきなり??? 私ヨンデルも「えー、と思」ったうちの一人です。

「えー、」どころではありません、えーーーっ!!! となりました。

 

上記の引用部分、これはやはりおかしいでしょう。「なぜ (-1)×(-1)=1 なのか」の答えが「そのように決めたから」? しかも「そのように決めたから」が単独改行され、活字も特大かつボールド(太字)。

 

「“なぜ”と問うのが大事」という通常の科学啓蒙姿勢の逆を言ってインパクトを狙っている。それは誰でもそう受け取るでしょう。しかし、こういう修辞が活きるのは内容が真っ当であればこその話です。

 

さて、代数学の基礎に照らせば、

 

なぜ (-1)×(-1)=1 なのか

 

は、確かに、ある「ルール」(後述)に由来します。がしかし、これはあくまで

 

ルールの帰結であって、けっしてルールそのものではない。言い換えると、

 

「(-1)×(-1)=1とする」のではなく、「(-1)×(-1)=1になる」

 

のです。「とする」と「になる」。この2つは、大きく違いますよね。

 

著者は大学教授でしかもそのうち一人は代数学専攻!ですから、数学科出の私の先生に当たる立場の人です。だから、まさか単純に間違えたわけではありませんよね。とすると、ありふれた「貯金と借金」や「未来と過去」などの「具体例」による説明──以下、「」付きの「具体例」とは、これら(による説明)を指すものとします。──から一歩踏み出そうとした余り、あるいは、そもそも「代数学の基礎」さえもが数学の発展の過程で出てきた産物であることを数学史的に解説しようと意図した余り、混乱・混同が起きた?のでしょうか。

 

ここで私がいうルールとは「定義または公理」であり、定義から帰結されることのうち重要なものを「定理」といいます。

 

「定義・公理」と「定理」とは、当然ながら区別されます。

 

これはあらゆる数学の根幹の一面です(→注)。ここを崩してはどうにもならない。そんなことをして数学が「きらめく」はずはないと私は考えます。

 

例えば、「ピタゴラスの定理」は、誰かがそう決めたのではなく、「直角三角形というもの(を定義したならば、それ)について必ず成り立つ」という類いのものの一つです。

 

では、(-1)×(-1)=1 を導く「ルール」とは何か。以下、======に挟んだ部分がそれです。唐突でいきなりわかりにくい印象になることを怖れます。当面、この記事自体は数学啓蒙書への批判的レビューに留まるものであり、数学啓蒙の文章自体を目指してはいませんので、お許しを。ここを飛ばしてもその後の文意は理解してもらえると思います(頭掻)。

 

======

集合の「要素」をここでは「元(げん)」と呼ぶ。

 

──可換群の定義──

1つの演算「加法」を持つ集合のうち次の G1~G4 を満たすものを「可換群(かかんぐん)」という。

 

G1:任意の元 a、b、c について結合法則 (a+b)+c=a+(b+c) が成り立つ。

 

G2:任意の元 a、b について交換法則 a+b=b+a が成り立つ。

 

G3:単位元(たんいげん)「0」が存在する。

 すなわち、0 は、任意の元 a に対して a+0=0+a=a を満たす。

 

G4:すべての元に「逆元(ぎゃくげん)」が存在する。

 すなわち、任意の元 a について、a+x=x+a=0 となる元 x が存在する。

 

──環の定義──

「加法」と「乗法」の2つの演算を持つ集合のうち次を満たすものを「環(かん)」という。

 

R1:加法について可換群を成す。すなわち加法について G1~G4 を満たす。

 

R2:任意の元 a、b、c について乗法の結合法則 (ab)c=a(bc) が成り立つ。

 

R3:任意の元 a、b、c について分配法則 a(b+c)=ab+ac、(a+b)c=ac+bc が成り立つ。

 

R4:乗法の単位元「1」が存在する。

  すなわち、1 は、任意の元 a について a×1=1×a=a を満たす。

======

 

さて、整数の集合はこの「環の定義(公理) R1~R4 」をすべて満たします。普通(高校数学まで)はこれらを整数の「性質」とみなしますが、代数学においては、逆にこの R1~R4 だけをまずルールとする、すなわち、整数のいろいろな性質のうち、他のことは前提とせずに R1~R4 だけを根源ルールとしつつ注意深く話を進めていくのです。そのとき、一つの帰結として、実は (-1)×(-1)=1 よりもさらに一般的な

 

(-a)×(-b)=a×b ……(*)

 

を導けます。この(*)さえ認めれば、そのまさに 具体例!として、すなわち(*)で a=b=1 とすれば、(-1)×(-1)=1×1=1 が成り立つことが直ちにわかります。

 

実はちょうど、前回に採り上げた『√2の不思議』に(*)の証明が載っています。

 

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 -a という記号は a+x=0 を満たす x を表すために

使われていることを思い出そう.つまり,a+(-a)=0 で

ある.(-a)+a=0 でもあるので,この式をじっと見てい

ると,a が (-a)+x=0 の解であることがわかる(x=a).

この式の解は定義によって x=-(-a)であるから,a=

-(-a) である.

 次に,b+(-b)=0の両辺に a をかけてみれば,a0=0

によって,

         ab+a(-b)=0

が成り立つことがわかる.したがって a(-b)=-(ab) で

ある.同様に(-a)b=-(ab) も示される.したがって,

  (-a)(-b)=-*1=ab

である.最後の等号のところで -(-a)=a を使った.

────足立恒雄『√2の不思議』(ちくま学芸文庫、2007年、46~47頁)

 

補足すると、「最後の等号のところで -(-a)=a を使った」とあるのは、

 

「ab=c とおき、先に示した「a=-(-a)」の a を c に替えれば -(-c)=c だから,

         -(-(ab))=-(-c)=c=ab

となる」

 

ということです。

 

この本も一般啓蒙書の類いなので、少なくとも引用箇所近辺には環の定義などは明示されておらず、上記の証明も、何をどこまで前提とするかについて厳密に書かれてはいません。それでも、「加法の単位元 0 と加法の逆元の存在」「分配法則」などを拠り所にして、(*)がそれらの前提から導かれる(すなわち(*)自身は前提ではなく結果である)様子は、十分伝わってきます。多くの人にとって、ルールから(*)の結論への道のりは“風が吹けば桶屋が儲かる”過程よりもさらに遠く感じられるのかもしれません。が、改めて強調するまでもなく、ルールと(*)の因果関係は「風と桶屋」の関係のような曖昧で怪しいものではけっしてなく、まったく揺るぎないものです。

 

しかし、ともかくも「風が吹けば」こそ「桶屋は儲かる」のであって、「儲かると決め(られ)たから儲かる」のではありません。だから、(-1)×(-1)=1 について、その証明の道のりをみて「風と桶屋」の話を引き合いに出す方が、「そう決めたから」とするよりはずっと妥当でしょう。

 

本書『きらめく数学』のような、(明言していないまでも)「具体例」に頼らずに始めて、代数的に証明しているかのような記述も小出しにしながら(実は22~24頁に『√2の不思議』の引用箇所と類似の記述があります)、同時に、数学史に触れつつ「そのように決めたから」などという結論を書いて人を煙に巻く、というスタイルは、一番いけないと私は考えます。「具体例」によって (-1)×(-1)=1 について納得していたAさんがいたとしましょう。本書をかじった誰かが「(-1)×(-1)=1っていうのは、“そう決めたから”なんだぜ」とAさんに言って、その頭をわざわざ混乱させる…という場面を想像してしまいます。

 

代数学と付き合う程度が数学科大学生未満であろう人たち、つまり大多数の人たちにとって、「なぜ(-1)×(-1)=1なのか」の話題についての反応は、上述の(誰かに何か言われる前の)Aさんの他に、次のBさんやCさんが想定されるでしょう。

 

Bさん:群、環などの代数系を自分でも勉強し、証明も読んで理解した。

 

Cさん:証明を読んだが、よくわからなかった。しかし、ともかく「数の体系というものはいくつかの実に少ない法則から成っており、「(-1)×(-1)=1」さえもが、法則そのものではなくて、法則から帰結されるたくさんの定理・結果のうちの一つである」(らしい)ことはわかった。

 

たくさんの「(吹聴される前の)Aさん」を生み出すことを目指すような標準的な啓蒙書も、あっていいし、実際に数多出ているようです。

 

Bさんのような存在は嬉しく、ありがたい限りですが、本人の資質/状況/環境に依るところが大きく、まさに「有り難い」。

 

とすれば、Cさんのようないわば“定性的理解”を示してくれる読者が多く出る(ように促す役目を担える)本が、「一味違った」「一歩進んだ」啓蒙書として理想的ではないでしょうか。これまで述べてきた通り、『きらめく数学』第1章は、この理想とはまるで反対であると私は考えます。

 

では今回はひとまずここまで。いくつか「注」を付けて補足したい箇所もありますが、それは後日更新することにします。

 

次回もこの話題をつづけます。

*1:-a)b)=-(-(ab