マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(4)
こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。前回のつづきです。
物理学者/エスペランティストの小西岳に、『きらめく数学』第1章を読んでもらい、意見を乞うたところ、次のようなコメントが届きました。
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数の集合拡大のルールと言えば、
環の公理が成り立つように拡大してゆく
ということでしょう。
それを念頭に置いて「ルールだから」というのはまだいいけれども、人間がいかにも恣意的に「そのように決めたから」、という言い方は、「では他の選択肢もあるのか」という疑問を引き起こします。
その意味で,確かに問題を含んだ解説です。
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ポイントは、(–1)×(–1)=1 という「拡大」が、自然というより当然あるいは必然であって、ほかの可能性は考えられない、ということでしょう。
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その通り。さすが、わが父。私ヨンデルの「舌鋒鈍く、たどたどしく書き綴っ」た批判とは違って、短くも鋭い実に的確な指摘といえます。ルールだというのはまあいいが、それは「メートル原器」を決めたり「冥王星を惑星としない」ことを決めたりするのとは異なる性質のものだ、ということですね。この指摘は前回の私の主張とは視点・力点は異なります。が、それだけに相互補完になりえます。私の批判は
(-1)×(-1)=1 自身はルールではなく、あくまでルールから導かれる帰結だ。
というものでした。「定義から定理が導かれる」という、数学の論理構造の「内側」に視点を置いて、質しています。一方、小西岳は、
(-1)×(-1)=1 は、必然であり、他の可能性はなく、「他のように決めることもできるところだが、人間はそう決めることを選んだ」というようなことではない。
と言います。つまり、代数系が系として必然的にそのように成り立つ様子を俯瞰する、いわば「外側」の視点からの批判です。そう、帰結であればこそ、必然なのです。ルールが不変であれば、様々な例や定理の結果もまた不変です。数学の定理/結果とはそういうものです。