音楽の編み物

シューチョのブログ

厚化粧に隠された涙─ゲルギエフの芸術─

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (35) 2009年1月

シューチョのアーカイブ (2) ──1998.12.14.「厚化粧に隠された涙─ゲルギエフの芸術─」──

アーカイブ」第2弾です。ワレリー・ゲルギエフマリインスキー劇場管弦楽団の1998年大阪公演について書いた文章です。ゲルギエフ評としては少々甘過ぎるかな、と現在の自分には思えますが、当時の実演の印象は確かに素晴らしかったのです。「キーロフ歌劇場管弦楽団」というのはソ連時代の旧称のはずですが、当時の日本ではまだそう呼ばれていました。また、ゲルギエフのことを「ゲルギー」としています。少々変ですが、このままにしておきます。

 


ワレリー・ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管弦楽団大阪公演に行ってきました。曲目は、

リムスキー=コルサコフシェエラザード

が「オードブル」、

ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲スクリャービン「法悦の詩」

が「メインディッシュ」、アンコール4曲

・ワグナー「ローエングリーン」第3幕への前奏曲プロコフィエフ「3つのオレンジへの恋」より行進曲 ・リャードフ「バーバ・ヤガー」 ・ベルリオーズ「ラコッツィ行進曲」

が「デザート」という、超ヘビー級フルコース。曲のせいもありますが、音楽作品自体を深く味わうというよりは、「我がオーケストラを聴いてくれ」という感じで、演奏会というより音楽会という呼び名がふさわしかったと思います。

まずはシェエラザード。第2楽章トロンボーンのドデカ吹奏にはびびりました。第4楽章のクライマックスシーンも期待以上。「ダフニスとクロエ」はそこそこ。やはりスクリャービンが一番充実していたような…。これを聴かせたいために客寄せポピュラー名曲と並べたのではないかしら。ソロパッセージで常時ベルアップし体を左右に揺らして吹くトランペット奏者の“エクスタシー”パフォーマンスも見ごたえがありました。今日の曲目はどれも、どちらかというと外面的なオーケストレーションを楽しむ作品といっていいでしょうが、スクリャービンの演奏ではオケの響きに前2曲にない深みと広がりがあったように思います。

その深い響きが如実に表れたのは「Last(ゲルギー自身がこう言ってから始めた)」のラコッツィ行進曲でした。弦合奏の音色(おんしょく)に、「演奏会の最後を飾る」のにはいささかふさわしくないほどの「含み」が出ました。フォルテでありながら寂しく、ほの悲しい擦弦音。即興的表現が続出し、ゲルギーは飛び跳ね、後半の加速でいよいよ盛り上がるのですが、少しも浅はかにはならない(ただしワグナーはいささか危なかった?(笑))。終結の和音が、金管だけを残してダメ押しに伸ばす必殺技で締めくくられると、場内は再び拍手喝采、熱気の渦となりましたが、僕はあのラコッツィにはもっと内面的な感動も憶えました。あのようなヤンヤヤンヤとは違う態度で、振り返ったゲルギーを迎えたかったのですが…。

ゲルギーの演奏は、華麗な色彩と意識的なダイナミクスで人を魅惑し圧倒させる外面的な力を確かに備えており、派手な指揮ぶりもそのスター性に拍車をかけているようです。しかし、どうやらそれだけではない。彼が作り出す“フル装備”のオーケストラ音楽には、そのフル装備に喜ぶだけでは勿体ない魅力が含まれています。むしろ自らの特徴を隠れ蓑にしているようなところもある。クレンペラーの音楽が「情熱の氷漬け(宇野功芳)」なら、ゲルギエフの音楽には「厚化粧に隠された涙」があると言えましょう。「情熱と技術の結晶」という意味ではトスカニーニに近いが、あれほど厳しくはなく、カラヤン的スター性を加えた甘味がある。でも、ゲルギーの本質は派手な指揮と表現だけでは語り尽くせない…と今のところ僕は見ているわけです。NHKBS特集「戦争ではなく音楽を~ロシア・挑戦する指揮者ゲルギエフの世界」で、彼は「コーカサスの山から強さを学んだ」と言っていましたが、それを思いだしました。孤独に山を眺めた人間の音楽。逞しく荒々しい魂を強靱な意志の下に自己統御する、その矛盾的過程のうちにほとばしる人間的躍動と滲み溢れる人間味こそが、ゲルギエフの音楽の魅力なのではないでしょうか。