音楽の編み物

シューチョのブログ

作品のスタイルと演奏のスタイル (2)

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (10) 2007年1月

──以下は、「椿姫」の具体論ではなく、一般論としてお読み頂ければ幸いです。僕は「椿姫」については全く不勉強ですし、手もとに資料もありません。例えば「咳」について、全くの大野の独創なのかそれとも台本等に直接関連するのか、わからず、確認もできません。しかし、前回(「言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (9)」)とちょうどリンクする話なので、今、書き下ろしてしまっておきます。── 住吉美紀アナウンサーのファンを自称しつつ(笑)も、ついつい見逃すことが多い「プロフェッショナル─仕事の流儀─」ですが、今回はゲストが指揮者の大野和士だったのでチェック(といっても最初数分は逃しました)。

大野は「椿姫」をピアノで弾きつつ、このアクセントは咳だとか、この悲痛な和声は喀血を表すとか、恋人との思い出に焦がれつつ逢うことは叶わないからデクレッシェンドになるとか、いろいろ解説をしていました。説明の口調からもピアノ演奏からも、彼のこのオペラへの情熱が、および、その内容と表現を自家薬籠中のものとしていることが、共感・好感を伴ってよく伝わってきました。敬服すべきことです。

しかし、問題はその後です。「その説明は大野さんのオリジナルですか」という茂木氏の問いに、大野は「僕の解釈というよりは、ヴェルディの考えなのです」という主旨のことを答えます。出ましたね、「作曲家の意図」。この話になると、上記のように、話題は音符ではなく強弱記号や表情記号に行く、という恰好の例となりました。もっとも、大野は旋律の下降音型についても触れており、さすがに、「注やフリガナを読むことばかりに躍起になる」(<a href="http://sonore.blog75.fc2.com/blog-entry-50.html" target="_blank"><u>音楽テーゼ集 (2)</u></a>)という愚は犯していないようです。ただ、上記の解説の内容を、大野はなぜ「作曲家の意図」と言うのでしょうか。ここには三つの問題があります。

一つは単純に、ほんとうにそれが作曲家の意図なのかということ。アクセントは咳であって嗚咽ではないという証拠はありません。と、これ自体はもちろん実につまらないツッコミです。が、「咳である」ではなく「咳であると私は考える」でなぜいけないのか。

いえ、「『椿姫』のこのアクセントは、咳である」という短文は、僕がやっている音楽テーゼ集のスタイルそのものであり、それはかまいません(笑)。テーゼのスタイルならば、逆説的ですが、その内容が「個性的」であればあるほど、それが「私の考えである(にすぎない)」ことが、「と私は考える」と後ろに付け加えなくとも明らかに伝わるでしょうから。テーゼ集の書き手としては、その辺の機微をたのしんでいるつもりです。よろしく(笑)。

で、やはり問題は「というのが作曲家の意図だ」という物言いにありそうです。「三つの問題」の二つめは、「それが作曲家の意図だ」というのが仮に正しいとしても、作品世界(の価値)を、どうして「作曲家の意図」に限定してしまうのか、ということ。作者の意図や理想だけでは説明のつかない、そういう「人為」に収まりきらないのが芸術作品というものでしょう。優れた豊かな作品ほど、太田光が「誤解」と呼んだ、位相の広がりを持つ(→「言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (7)」)のです。

次の三つめは、僕も今まで言及していませんでしたが

・作曲家とは「奏者や聴衆に自分の意図通りに演奏し鑑賞してほしい」と誰でも常に望むものであるのか?自分の思うように他人にも思ってほしいのか?

という問いも成り立ち得るということ。マーラー辺りはこれらに強くイエス!と答える代表格でしょうね(笑)。しかし、ドヴォルザークなら「ご自由になされ」と、ブルックナーなら「どうか私ではなく神に従われんことを望む」などと言いそうではないですか。「作曲家の意図」というなら、個々の作曲家の性格の違いにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。作曲家によって意図や理想そのものがそれぞれ異なるのは当然として、さらにメタ的に、自分(の意図や理想)と他人(=奏者や聴衆)との関係・距離の保ち具合(の希望)もいろいろだろうと思うのですが。

と、ここまで考えると、指揮者が自分の表現・解釈を「というのが作曲家の意図だ」と説明するのは、自分の表現・解釈について、その正しさを根拠付け、権威付けるためである、という「意図」が残ってきます。