音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (11)

   2004年             

 『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」において、惑星1個を丸ごと消滅させるほど強力な爆弾R1号の実験が成功し、ウルトラ警備隊員たちは「これで地球の防衛は万全だ」「使わなくともこれがあるぞと知らしめるだけでいい」と口々に喜びますが、主人公モロボシダン(実は宇宙人)だけは顔を曇らせ、隊員の一人と口論になります─「侵略者はR1号よりもっと強力な兵器を開発しますよ」「それなら我々はさらに強い兵器を作ればいいんだ」「…それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ…」─。

 『セブン』は1967年の作品であり、「侵略者よりも強い兵器の開発」とは言うまでもなく冷戦時代のメタファーです。強引ながらこれを学校音楽界に置き換えれば、コンクールとは「他の出場者よりも高い技術の披露」のための「悲しいマラソン」だと言えます。いえ、まさかコンクールを冷戦─戦争に喩えるつもりはありません。いくら何でもそれは飛躍で、あくまでコンクールとは競争です。しかし、確かに競争です。競い、争い、結果は賞与(の有無)となって返されます。ところが、「互いに競わせる」ことや「外的褒美」を設けることは、個性・能力・向上心・相互扶助の社会性などの育みのためには、役に立たないばかりかむしろ逆の効果を生む、「競わせない」「褒美を与えない」方法が有効である、とする実証的研究があります(→注)。褒美とは「これをすればあれをあげるよ」と促すものですが、これでは「これ」の価値が「あれ」以上には決してならない。芸術(音楽)活動の貴さ=価値はそれ自体の中に既に含まれています。いい演奏ができればそれだけでたのしいし、それを目指すだけで意義深い苦しみにも喜びにも充実するはずであるのに、賞(の有無)によって「上位の喜びと下位の悔しさ」という次元になってしまう。これが価値の「悲しい」矮小化でなくて何でしょう。「僕は絶対R1号の実験を阻止するべきだった。それができたのは(ウルトラセブンでもある)僕だけだったのに…」と悔いるモロボシダン。彼と同様の矛盾と苦悩を、生徒たちと「悲しいマラソン」ではなく「ただのマラソン」を走りたいと願う私もまた、抱えているのでしょう。

 さて、今回の曲目、特にアルメニア舞曲集は、なかなかにきついマラソンでした。絶えず現れ出ては瞬く間に消えゆき続く音─音楽の流れとして、もうすぐ、この場で、細かな成功と失敗が無数に生まれるでしょうが、その全体としては、普段の練習でしばしば起こったすばらしい芸術的感興が少しでも現れ伝わることを祈るのみです。

注:アルフィ・コーン 『競争社会をこえて』(山本啓/真水康樹訳、法政大学出版局、1994年)、『報酬主義をこえて』(田中英史訳、法政大学出版局、2001年)