音楽の編み物

シューチョのブログ

ベッツィ&クリス『THE BEST OF BETSY & CHRIS』

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「白い色は恋人の色」が出た1969年から6年経った小学4年生の頃、歌い出しである「花びらの白い色は、恋人の色…」の一節をラジオか何かで聞いて(か、ただふと思い出してか)「いいな、でも何だか能天気で物足りないな」と感じた記憶があります。何とも生意気なガキ…(苦笑)。どうしてそう思ったのか…ヨナ抜きだったからでしょうか。

 

2002年頃、昔知った曲を今聴いてみたいと思っていろいろ検索して見つけたCDの一つがこの『THE BEST OF BETSY & CHRIS』です。「白い色は恋人の色」の作詞作曲がフォーククルセイダーズ北山修加藤和彦だったこともそのとき知り、フルコーラスを初めて自覚的に聴くことができました。そのクォリティーの高いこと!子どもの時には到底意識しえませんでした。やはりヨナ抜きを脱した「シ」連発のサビこそが大人の胸を揺する(笑)。ラストの「想い出の色」の「ろ」の持続音、主声が消えた後も、他方の低い声(どちらがベッツィかクリスかは未知(頭掻))がわずかに長く残る。揃っていないからこその味わい、余韻。おそらく「揃えないようにした」のとも違って、ベストテイクを残す過程で今私が書いたのと同じことを作り手が感じ「これで行こう!」となったのではないか…そんな想像も楽しい。

 

さらに驚いたのは、他の15曲。北山─加藤のコンビの「パピルスの船に乗って」「花のように」「すてきだったから」「美しいものたちよ」のどれもが素晴らしい。そして他の作詞家たち作曲家たちの手がけた「夏よお前は」「娘は花をまとっていた」「ふたりだけの島」「僕の中の君」の4曲も、質の上でまったく引けを取らない。さらに外国曲のカバー7曲も、「この二人がこれを歌えばさぞ良いだろう」というものばかりが選ばれていて実際にそうなっている。そのうちのいくつかは第5回で書いたPPMに迫る名演ですし、アコースティックな伴奏による「SOUNDS OF SILENCE」については、本家を凌ぐとさえ私には思えます。

 

全部いい。そうなんですが、実は日本語の歌については初めの頃は「白い色は恋人の色」「すてきだったから」「僕の中の君」の3つが特に気に入っていて、これらとその他、という風に意識していました。それが、何度も繰り返し聴き、また、「これ、いい!…」と言ってその理由を雄弁に語った妻の言葉にも触発され、他の曲の良さにも目覚める、ということを経てきたのでした。

 

孤独を志向する娘(者)の心情を吐露した「パピルスの船に乗って」、良質のメルヘンのような奥行きを持つ「娘は花をまとっていた」、恋愛と美の世界をつないだ「美しいものたちよ」。いずれも、シンプルな韻文として短くまとまった歌詞の中に、意外にも深い文学・含蓄・哲学が詰まっているのではないか。それを、明るく軽妙な長調の旋律で覆い、ベッツィとクリスのあの魅力溢れる訛った日本語の歌声によって届けることで、その真実を自ら隠しているのではないか。…いささか大げさながら、ここ数年でそんな風に考え至っています。

Mr.ユニット『DIALOG あの時君に言えなかった台詞』


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浅見昴生、新沢としひこのデュオ。

 
新沢としひこさん(おどけている方(笑))は、「世界中の子供たちが」や、つるの剛士さんもカバーした「にじ」などの作者でもあるシンガーソングライター。ソロ活動の方が圧倒的に長く、アルバムはたくさん出ていて、「バナナ」「そんなことじゃない」「つぶやきを消さないで」などがいいのですが、最も気に入っているのは「椎の実拾い」です。新沢さんの中では珍しい短調。夕方の子どもを歌った詞がシンプルな旋律に乗って静かに盛り上がる“短調のドラマ性”にすぐれています。ただし『DIALOG』では、全曲、新沢さんは作詩のみにまわり、作曲は浅見さん。浅見さんも屈指のメロディーメーカーだと思います。特に後半「守れない約束」「ショコラ」「Long good bye」と名曲が連続するのはすごい。どれも、詩・曲・編曲のすべてが優れています。

 
以下、またまたややネタバレ的です、ご容赦(頭掻)。

 

「守れない約束」…1番・2番の詩に異なる旋律が与えられ、3番で同時進行。まさにDIALOG。しかしその曲に乗るのは、彼が彼女に応えず沈黙し対話のはずが独り言になってしまう失恋の詩であるという、短編トリック小説のような一編。アイデア自体は珍しくはなく、探せば他にも例があるのでしょうし、私はこの曲しか知りませんが、そのようなものを集めて聴いたとしても、その質において最良の1曲であろうと予測します。

 

「ショコラ」…絵本作家を夢見る少女ショコラに、やめとけ、世の中そんなに甘くない、と諭す歌。3番のサビから主人公の名前を連呼するコーダへと進み、迎えるのは、『ウルトラセブン』最終回にも通ずる“反転する感動”と深い余韻。ムム、たとえが大き過ぎる?詩も譜面も全部書き綴りたい衝動を、何とか抑えています。

 

「Long good bye」…長調なのにサビは短調。SPEEDの「My Graduation」がそうですね。いや、歌い終わりですうっと長調に戻る点では「パプリカ」に似てるのか。これももちろん他の例も多くあるのでしょうが、その中でベスト1を争うと確信します。

 

愛車プジョー206に乗って出かけるときは、この『DIALOG』をよくかけ、名曲3連発の所に来るといつも気分が高まったものです。必ず全曲通すことになる。…206を手放しクルマ無し生活になって以来、そういえばもう長らく聴いていません。久しぶりに家で聴いてみることにします。

ピーター、ポール&マリー『CARY IT ON』

 

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小学校4年の頃から、60年代アメリカのプロテストソングにすっかりなじんでいました。父・小西岳のエスペラント訳の歌集をエスペラント関連の例会や合宿について行ったときに歌う──うたごえ運動の名残り?──ことで入門したのでした。ですから英語の原歌詞よりも父のエスペラント訳詞でまず入ったわけです。“Where have all the flowers gone?”ではなく“Kien floroj iris jam?”(キーエン フローロィ イーリス ヤム)、“Puff, the magic dragon…”よりも“Puff, la drak' magia…”(パフ ラ ドラック マギーア)の方が私のデフォルトでした。

 

ボブ・ディランピート・シーガージョーン・バエズなどを聴きましたが、音楽としては、やはりピーター、ポール&マリーが抜きん出ていると思いました(次いではバエズでしょうか)。今回挙げたCDセットは、もちろん大人になってから、確か発売(2003年)してすぐの頃に手に入れたものです。ちょうどその少し前にPPMが復活し、来日も幾度かしていたんだったと思います。同じタイトルのDVDもあります。

 

どれも、今聴いてもまったく古くない、一級の音楽。3人の作る、アコースティックギターの音と美しい和声の歌唱によって、どのナンバーも、詞と曲が、つまり歌が、沁み入るように伝わってきます。

 

いくつか順不同でセレクトしてみます。

 

「レモン・ツリー(Lemon Tree)」…洒落た転調が効いた、アコースティック・フォークソングならではの世界。

 

「虹とともに消えた恋(Gone The Rainbow)」…Shule, shule, shule-a-roo, Shule-a-rak-shak, shule-a-ba-ba-coo の歌い出しが耳から離れません。

 

「パフ(Puff, The Magic Dragon)」…泣かせる絵本。

 

「花はどこへ行った?(Where Have All The Flowers Gone?)」…摘まれた花はどこから来たのか?題名との悲しい反転・輪廻。

 

「天使のハンマー(If I Had A Hummer)」…こちらは父のお気に入りとして。当時の自宅の洋間のステレオで父といっしょにPPMのレコードをかけて聴いたとき、「ちょっと短いけれども、これが一番好きだ」と言って微笑んでいたのをよく覚えています。メインは通してマリーがとり、justice や freedom の語が、本心の語気で、目一杯の声量で、それでいて軽やかに歌い抜かれ、終わって静まったときにはたいへん清々しい気持ちになります。

 

さて、特に「花はどこへ行った」については次の(1)、(2)の特徴がPPMならではの大きな魅力になっています。

 

──以下、野暮を承知でネタバレ的に書き過ぎておりますのでご了承下さい。──

 

(1)

・歌い出しの Where 1音節に1拍の長さを与え(通常は where have で半拍ずつ)、続くhave all が必然的にシンコペーションとなる

・歌い終わりの When will they ever run? の直前にOh,の1音節を加え、後ろの ever runの3音節が半拍単位の連続音として詰まってくる

という、旋律線の絶妙な変更によって、旋律自体も歌詞の言葉も本質的なリズムを取り戻すかのように聞こえてくる。

 

(2)

同じ旋律箇所の和声の拾い方(転回の仕方)を次々に変える、4番での歌詞2〜3行目のフォルテ〜ピアノの思い切ったコントラスト、3人のボーカルがメインとサブを何度も交代していく、特に4番が終わる直前にさっと抜けたマリーが間奏無しで5番をかぶせてくる…等々、6回の歌の部分がどれ1つとして単なる繰り返しにならずに変化しいていき、それらの悉くがこの歌詞の物語を読み聞かせ、展開していく。その息もつかせぬ音楽的緻密さ。

S59・10・30 宇野功芳 幻のコンサート


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やや硬質ではあるが、石橋メモリアルは響の美しいホールである。そして、その美しさは、皮肉なことに、客席に人がいないとき、天国的なまでの透明度に達する。「いっそ、お客を入れないでリサイタルをやろうか」「文字通り“幻のコンサート”になりますね」第5回の宇野功芳・合唱指揮リサイタルの際、私は宇野さんとそんな会話を交した。

[……]

生演奏の、あのかけがえのない緊張感を維持しながら、最高の条件下でもう一度録音してみたい。より良い音を求めるオーディオ技術者達の執念が実を結んで、晩秋の1日、このコンサートは行われた。壇上、宇野さんはタキシード、合唱団は正装、600人以上入るホールの隅に、入場を切望したファンが数十名。アコースティックの美しさを守るべく、ギリギリの客席人数である。演奏はやり直しなし、一度限り。

[……]

===プロデューサー・中野雄氏「ひとこと」から===

 

中田喜直高田三郎などの合唱作品がこれほどまでに感動的な音楽であったとは。寒さ、冷たさ、暗さの中に人の心の火が熱く燃えゆく「雪の日に」。「小さい秋みつけた」が一大叙事詩に聴こえる。滝廉太郎の「花」が、こんなにアーティキュレイティドな節回しや思いきった漸強弱とアゴーギクを伴って歌われるとは。澄みわたる女声が、それでいて振れ幅大きく揺れながら、あらゆる情景情感を繊細に豊かに表現してゆく。綺麗というのとは対極の、真の美。加えて、伴奏のピアノが、協奏曲のオーケストラが単なる伴奏でないのと同等に、またはそれ以上に雄弁に語ってくる。小品集の小宇宙。

『ワルター/音楽を語る フランス国立放送管弦楽団とともに』


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ワルター/音楽を語る』は、フランス国立放送soとのライブを収録した上に、ライナーノーツには生前のワルターと文通を果たした宇野功芳先生の長い解説、そして文字通り音楽を語るワルターの肉声が刻まれた盤も含む、ファン垂涎のセット。

 

高1の秋でしたか、ワルター/コロンビアsoのブラームス第2、マーラー第1などに目覚め、それらを含むステレオ廉価盤シリーズ「ブルーノ・ワルターの芸術1500」を収集し始めて以来、ワルターへの敬愛を自分から憚りなく口にするようになったものの、「遅れて来て参入したファン」感は否めず、高校時代はモノラル音源についてはほとんど未知でした。時代はLPからCDへの移行期、大学生になってからは、フランス国立放送soのライブの中では最も有名な「プラハ」「リンツ」辺りはCDで聴けていました。けれども、全音源を網羅した初出LPセットというのはやはりレアで憧れていたので、手にしたときはほんとうに嬉しかった…。レコードやCDに限らずに広く自分のコレクション全般を見渡しても、最も思い出深く思い入れの強いものがこの『ワルター/音楽を語る』です。

 

これは、畏友Sが、阪急三番街の中古レコードフェアで発見→キープ→立替購入してくれたおかげで、みごと入手できたのでした。今回、実に久しぶりに棚から取り出して、背以外の、全面ブルーのジャケットのオモテ面を目にし、改めて感謝の気持ちいっぱいで眺めています。


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さだまさし『夢供養(ゆめくよう)』

小6当時、「勝手にしやがれ」や「愛のメモリー」を歌いまくるような歌謡曲少年だった私でしたが、「雨やどり」が出たのを知ると、そのコミカルな世界に魅せられ、さっそくシングル盤を買って(だったか、友人に借りたんだったか)聴き込みました。観客のウケる声の入ったライブというのも新鮮でした。中学生になってからLPのアルバム『帰去来』『風見鶏』『私花集(アンソロジー)』にも手を伸ばし、スケールの大きい「つゆのあとさき」「主人公」、短編小説のような「飛梅」「檸檬」などが特に好きでした。『夢供養』は4枚目のソロアルバムで、発売日を見ると私が中2になってすぐの頃。「唐八景」「風の篝火(かがりび)」「歳時記(ダイアリィ)」「パンプキン・パイとシナモン・ティー」「まほろば」「療養所(サナトリウム)」「春告鳥(はるつげどり)」「立ち止まった素描画(デッサン)」「空蝉(うつせみ)」「木根川橋」「ひき潮」、全11曲いずれもが名作です。特に「風の篝火」「パンプキン・パイとシナモン・ティー」「まほろば」「療養所」「春告鳥」「空蝉」「ひき潮」──特にと断りながら11分の7!──の素晴らしさ。僕が今もって、さだまさしこそが史上最大の天才的シンガーソングライターであると疑って止まないのは、まずはこの7曲によっているといえます。今回は『夢供養』の紹介なので羅列は控えますが、「史上最大」の「証拠」として外せない曲がもちろんまだいくつもあります。

 
ただ、『夢供養』以後は、徐々にクラシックへと嗜好・関心が移っていく時期と重なり、『随想録(エッセイ)』『印象派』『うつろひ』まではLPを集めるも、『夢の轍』から先はほぼまったく知らずに今に至っていまして…。ライブに行ったこともなく、アルバムで数えても彼の仕事の10分の1ほども知らない私には「ファン」「通」を名乗る資格はもとよりないのではありますが、それでも…

 
さだまさしがメジャーな中では最もマイナーな?存在に甘んじている?のは、不思議と言うべきかよくもわるくもポピュラーってのはそうなるんだろうと言うべきか…。同世代/前後世代の「シンガーソングライター」と呼ばれる誰を挙げても、詩も曲も歌唱も、その独創性普遍性芸術性において、その「質感」において、さだまさしは別格である、と言い切りたい…のは、私だけなんでしょうか。わずかに一人、笑福亭鶴瓶さんが、あからさまにではないものの私からすればたぶん私と似た考え・感想を抱いているのではないか…と思えるような発言をしている場面を、過去のTV番組で見かけたことがあります。「よくぞ言ってくれた」と膝を叩いたのを覚えています。──当時、「夢供養」を「無教養」と読む冗談をさだ本人も飛ばしていましたが──音楽・文学への教養の質と量の深さといった点においても、さだは抜きん出ていて、他の「ミュージシャン」「アーティスト」が束になってかかっても敵わないのではないかと。他分野で言えば「手塚治虫と他の漫画家」。…さすがに距離感としてそこまでは行かずとも、そういった、ある種の“埋まらない差”だと言いたいわけです。もちろん、私は他の人々についてさだほどにさえよく知らず、きちんと比較批評できるわけではないので、無責任で勝手な想像でしかありません。

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カルロス・パイタの「英雄の生涯」

カルロス・パイタ、昔から名前だけは聞き覚えがありましたが、演奏を知ったのはネットで“拾い聴き”ができるようになった最近から(苦笑)。いやいやどうして、あなどれません。
 
ドヴォルザーク後期3交響曲(特に7番)なども素晴らしいのですが、この「英雄の生涯」には仰天しました。冒頭の「英雄」(「英雄の敵」に入る直前まで)の部分、ピアニストが十八番の小品でも弾くかのようにテンポを動かしまくっています。よくもまあここまでやり尽くしたものです。それでいて、個性的というよりは、ある種の典型的なスタイルを感じさせるのです。つまり、この曲のスコアを見ながらなら一度は誰しも(?少なくとも僕は)似たような流れで振ることを想像してワクワクしてくる…そのような造型のように感じます。ただ、それを「ホンマにやるかぁ!」という(笑)。それでいて同時に「おっ、そう来るか!」と意外性を感じる箇所もあって一筋縄では行かず、他では得られない愉悦感で満たされます。
 
そこで改めてスコアを開いてみましたが、(少なくとも「英雄」部分について)R.シュトラウスはテンポ変化の指示を何も書いていないようです。つまり、確実にパイタ自身の内から溢れ出た流れ、あるいは考えに考え練りに練った流れであるということですね。内面の格闘を経て生まれたもの。だからこそ、普遍的な人間の感じ方・捉え方の一種として却って信用できる。
 
インテンポを礎とする名演奏というのもあります(→注)し、テンポを動かせばいいということではない、が、ただ動かさなければそれでいいということではもっとない。通常はここのところが反転してしまって、大抵はおそらく、「作曲者が書いていない」(とか「オケが合わせにくい」)ということを言い訳にして「造型できない」ことを「造型しない」ことにすり替え、「これが正しいのだ」とばかりにアゴーギクを一切加えずに素通りしてしまう。
 
ともあれ、パイタの造型はまことに周到で普遍性を帯びたものになっていると思います。しかもこれ、何とライブです。すごいです。いったいどんなリハーサルをしたのでしょうか、自ら率いたフィルハーモニックsoならではの徹底ぶり。恐れ入ります。
 
注:ベーム/ウィーンpoの'63ウィーンコンツェルトハウスでのライブはすごいですねぇ。

 

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