音楽の編み物

シューチョのブログ

トリカード・ムジーカの集い_2019.12.28

 年末のトリカード・ムジーカ。12人のエロイカ第1楽章、ブラームス第3緩徐楽章、ベートーヴェン第5。第5第1楽章再現部のフェルマータの響きが美しく、そのまま聴いていたくて長くなりました…いえ、「今、長くしたのはこの私だ」(クナ風)😃

 

f:id:sxucxo:20200123215047j:plain

f:id:sxucxo:20200123215100j:plain

f:id:sxucxo:20200123215111j:plain

 

トリカード・ムジーカの集い_2019.11.30

台風による中止を挟んだ、2か月半ぶりのトリカード・ムジーカの集い。僕を含め7人の、エロイカ第1楽章、ブラームス第3緩徐楽章、ベートーヴェン第5。
 
──写真は休憩時のもの──
 
さすがに今日は音の不足感が否めないか…と、始めるまで抱いていたその不安は、冒頭の変ホ長調の和音が鳴った途端にもう払拭されました。ちゃんと、音楽になる(ただしプレイヤーには演奏後に心地よい?疲れがドッとくるとのこと😅)。どうしてなのか自分にもわかりません。吹き振りで補ったから?指揮者がいいから?😃ミューズの神の見守り?
 
少なくとも、「自己満足に過ぎぬ」と上から斜めからモノを見るような人にはけっしてわかりえないような何かが、働いているのでしょう…。
 
ともかく、「少ないままでは…という不満をバネに拡大の意志をもつ」という回路は僕の頭にはありません。7人でも音楽になるからこそ、その仲間を増やしていきたい、とは思っています。この“小さな大オーケストラ”で弾きたい人、歓迎します!

 

f:id:sxucxo:20200123215145j:plain



 

シフのベートーヴェン

サー・アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンPf協奏曲全曲演奏会。1日目は2、3、4番、2日目は1、5番。
 
無限のニュアンスに満ちた自在な表現。少人数のオーケストラが、そのシフに、ついていくというより、微笑んで苦もなく付けている。テンポを落としたときの弱音の美に息を呑み、ここぞという場面の意志的な最強奏のパワーに圧倒される。
 
シフは、ブルーノ・ワルターが「アダージョ、アンダンテの領域」と言った第1楽章ソナタ形式の第2歌謡主題に、悉く繊細なテンポを与え、8分音符が連続するような旋律では一音ずつ細かくわずかに前後に揺らし、スルメを噛むようにフレーズを編み込んでいく。これこれ。こうでなくちゃね。出不精の僕は生にこまめに足を運ぶわけではなく、よく知りませんが、たぶん今日(こんにち)の演奏では珍しい造型なのではないでしょうか。
 
余裕というかゆとりというか、かつて聴いたハイドシェックもそうでしたが、アンコールも長いまたは多い。ピアノの名手というのは、弾きたくて仕方がないんでしょうか(笑)。1日目の休憩前に独奏曲(曲名失念)、4番の後にアンコールで5番の緩徐楽章…ん、てことはアタッカでそのままフィナーレに突入?と思ったらその通りに来ました(笑)。…とくれば2日目は…予想通り5番の後に4番の2、3楽章を続けて。そしてさらにラストは、オーケストラのメンバーも聴き入る中、告別ソナタの2、3楽章を続けて!たっぷりの2日間でした。
 
1日目にはアフタートークも。これが…話が長い。長!(苦笑)。残念ながら中座させてもらうことになるほど。いわゆる指揮者要不要論なども出ました。これについては書くと長引くので今は控えます。

 

f:id:sxucxo:20200123214744j:plain

f:id:sxucxo:20200123214849j:plain

f:id:sxucxo:20200123214907j:plain

 

ワルターのモーツァルト(1)

よーうやくSACD化されたワルターのステレオシリーズ。

モーツァルトハイドンのセットが今日届きました。

f:id:sxucxo:20191201003731j:plain

「これをまず聴こう」とふと思って、フランチェスカッティとのコンチェルトをかけたら、音場の近さにびっくり。オーケストラのVn.の細やかな節回し。ブルーノ・ワルターの発した「声」が、60年後の今、この僕に直に語りかけてくる。もちろん、フランチェスカッティの独奏も実にアーティキュレイティドな美音。

第1楽章の後、同曲同演奏のグランドスラム盤も再生してみましたが、新しいSACDに軍配。🐰もっとも現在の当方の装置はスピーカもアンプも何にも凝っていない“オーディオ初級機”、ただプレイヤーは初級ながらSACD機ではあり、それだけで十分、ソースのアドヴァンテージが引き出されたということでしょう。──グランドスラムはこれまで良質なオープンリール起こし盤をたくさん提供してくれ、感謝してますし、装置がもっと良ければ逆転もありえるのかも…と思えるほどは僅差でした。──

リマスタリング自体もかなり向上したのでしょう。従来のソニーSBMは曇って抜けがわるいという印象で、輸入盤のノンSBM盤がよいというマニア評が出回るなどしたものでしたが、今回はさすがに気合いが入っているとみました。80年代に、再発売廉価盤LPレコード「ブルーノ・ワルターの芸術1500」(1500円)によって入門して以来、ワルター/コロンビアsoのステレオ録音がこのような新鮮な音で聴ける日が来るとは!

 

ベートーヴェンはすでに予約済み。…今後、追って全録音が発売されるのでしょうね…。いささか高くつく…いやいや、何て安い?“人生の出費”。

幻の蝶

2019年10月26日、空間の詩人・清水きよし「幻の蝶」堺公演。
 

f:id:sxucxo:20191201003419j:plain


…壁を伝い、重い荷物を持ち上げ、「まるでほんとに壁や荷物があるみたい」…パントマイムとはそこの巧さだと思っていた。そうした先入観の浅薄さには、今や我ながら恥じ入るよりもむしろ可笑しい。というのも、今日の公演においてそのような場面はついに一時もなく、「あるみたい」ではなく、ただ「ある」のであった。
 
風船が、あった。
 
手品のイリュージョンを見た。
 
トンボが、舞った。
 
蝶が見える。
それを追う人がいる。
追う人にも見えている。
でも、蝶はいない。
 
見えないものが見える。見えないからこそ見える。ないのに、ある。ないからこそある。だけでなく、ないものはないように見える。「ある」ものは「ないからこそある」のに、「ない」ものは、ないのに、ない。見えているのに見えない。この純粋な反転。マイムの芸術、芸術のマイム。
 
八つの演目の、「演ずる役が異なる」のではない。一つ終わって次になると、毎度、さっきと顔が違う別人が登場し、八人以上のキャストに出会った。独演ではない独演。一人が八人、八人が一人。
 
一人の芸術家が何もない空間に立ち振る舞い生成する豊かな世界と時間。その一瞬一瞬のすべてに込められた、ユーモア、情緒、情感、生、美…。それを見る者には、深い感動が、心の奥から、身体の芯から、沸騰する蒸気のように噎せ溢れ出る。
 
もう一度見ないとわからない、あと二回見てもたぶんわからない、そのわからないことにもまた感動の種が潜むに違いないと思い至り、再び感じ入る……。
 
 
……さて、上の散文詩?風拙文に入れることができなかったものについても以下に。
 
『いのち』は、今日の白眉の一つでした。下手からの登場自体がもう内容に入り込んでいる、という演出が他の演目とはまったく違う雰囲気を醸し出し、引き込まれざるをえません。静止と見紛うほどの遅々たる歩みを目で追っている間、息を止めて見入っていました…って、そんなはずはないんですが…。そして、舞台中央に辿り着いてからの、清水きよしの一挙手一投足の一瞬を逃さず捉えんとして鬼気迫る表情で11弦ギターを構え、みごとにシンクロしつつ撥弦していく辻幹雄さんの姿にも、大きな感銘を受けました。もちろんお二人で合わせていくのでしょうが…。清水先生と、もうどちらを見たらいいのかとキョロキョロするほどでした。いやあ、すごい!
 
今回のパンフレットには清水先生ご自身が「作品雑感」という文章を綴られています。そこに、『つり』についてはある一つの芸能(パンフ内では芸能名も指摘されています)からヒントを得た、その中のどの題材から得たのかは観てのお楽しみ、と書かれていました。終演後、畏友UKとの二人飲みでの対話中に、ふとその前半の意味とマイム表現のリンクに(ようやく)気づきました。ただし後半の意味は未だ知らず(頭掻)。教わるよりも今後どこかで「あぁ、これだったのか!」と巡り当たる方が嬉しいのかもしれません。
 
…すみません、ついまた饒舌モードが出ました(頭掻)。どれだけ言葉を連ねても捨象されることの方が多く、芸術の営為それ自体は必ずどんな感想批評も超えて無限に豊かな内容を包含するものです。この野暮な投稿の締めに、再びこの言わずもがなのことをお断りすることにします。

現代数学の難しさについて

数学セミナー9月号。特集「現代数学の難しさについて」には,思わず膝を打つことが書かれていました。

 

────────
 私たちが数学に遭う際,1度目はえてして要領を得ず,[理解は2度目]以降となる。人に数学を説明すると「よく分かりました.前の先生はなぜこう説明してくれなかったのかしら?」と感謝されるが,それは当人が既に1度目を済ませており,私はたまたま2度目に居合わせたにすぎない.
──(時枝正「むずかしい数学とつきあう」『数学セミナー』2019年9月号,日本評論社,8頁,「理解は2度目」を原文では[ ]でなく下線で強調)──────

 

中高一貫校で授業するのがなりわいの僕は,初めての“ワケワカラン”ものへの理解の初動を促すために苦労しているのに,何度目かで“やっとわかった”ことの手柄をかすめ取っていく予備校の先生などはズルイ!という気持ちがどこかにありまして…。あるいは,〇〇(何らかの中高数学のトピック)についての,教師間でもごく常識的に流布している,ある「わかりやすい」説明を,〇〇自体にはまあ精通しているがその教育は専門でない誰かが,〇〇を難しがる大人相手に得意げに話す,といったこともよく見聞きします。で,我々からみればしばしばかなり怪しく綻びもある形でなされるその説明を「よくわかった,こう教わりたかった」と喜んで聞く人がいると,アンタが忘れとるだけじゃ!…か寝とったかや!とツッコミたくもなるというものです。

時枝先生の言葉にはこういった現象を受容せよという含意もあることはもちろんわかりながらも,やはり言い当ててもらって溜飲の下がる思いも強いのです。

 

────────
ところで,自分のコントロール範囲で[わざとむずかしくしてみる]のは,研究の定石であり面白い.特殊事情が作用し,いわばエレガントに解ける問題がある.一旦解けた後,特殊事情は禁欲して,敢えて泥臭い方法を試みる訳だ.「すごさ」憧憬の御仁にお薦めする.
──(時枝正「むずかしい数学とつきあう」,前掲書,10頁「わざとむずかしくしてみる」を原文では[ ]でなく下線で強調)──────

 

日頃,エレガンスに欠け,地を這うような泥まみれの解答を何とか作り上げる,という場合も多い僕のような者からすれば,「敢えて」の試みなのか素の発想なのかは異なれども(頭掻),「(ときに)エレガントより泥臭さ(を)」という指摘には救われる思いです。

 

────────
のちに,明治大学で教鞭をとるようになって,矢野先生の演習での講義と同じ内容を大学院生向けに講義することになった.しかしそのときにとても困ってしまった.自分が説明する段になって講義ノートを作ってみると,「自分がかつてまったくわからなかった説明と同じ言葉を繰り返す」以外に説明の方法がない,と気づいたからである。これでは講義をする前から「学生にわかってもらえない」ということがわかっているのであった.
──(阿原一志「わかる力」,前掲書,32頁)──────

 

これも,僕なりにたいへん共感しつつ読み,思わず小さく声を出して笑いました(笑)。自分がオモロイと理解しワクワクもしている何かについて伝えるのに,けっきょく,ほぼ唯一最善の選択肢として教科書の言葉をなぞって連ねることになる…というようなことがあるのです。すべてがそうだというわけではもちろんないのですが,そういうときはまことにもどかしい。数学の諸事項諸概念の理解には,初めて接したとき(からしばらく)はさっぱりわからず難しかったことが,いつの間にか,あるいはあるとき急にふと一気に,そうでもなくなる時を迎える…という理解のされ方が一つの典型としてあるのでしょう。「わかりやすい説明によってわかった」とかいうのでない,あり方。そして,理解できたとしても自分ではその理由がはっきりとはわからないし,さらには,いったん理解したことについては「こんなにも明解なことが,過去の自分にはなぜ理解できなかったのか,もはや理解できない」といったことさえある…。

「難しいことを易しく語るのは難しい」とよく言われ,本特集でも他の方がそう書かれています。ほんとうにその通りと半ば同意しつつも,一方で,そういう“伝える側”目線だけで捉えきれるものではとうていないのではないか…とどうにも納得できずに長らく来た自分もいます。「難しいことは難しく語る以外になく,だから難しい」のではないか。理解する主体がどうであるか,というところにけっきょく還元されるしかないような,「理解の深層」があるのではないか,と。

 

──────
数学の理解について話をすると「どのようにすればわかることができるか」や「わかりやすい説明とはどのようなものか」や「わかることができるようになるためには何をすればよいか」を知りたがる傾向にある.しかし,筆者の長年の経験による感想では,これらの問いの中には本質的な答えに通じる道はなく,このような問いを考えている限り答えにたどりつくことはできないのではないだろうか.
──(阿原一志「わかる力」,前掲書,32─33頁)─────

 

付言すると,『計算で身につくトポロジー』など,おそらく他書を引き離してこれでもかというほど平易な著書,少なくとも平易に書くということに驚くほど意欲的で魅力のある著書を書かれているあの阿原先生までもが,いや,だからこそ,こう言われるのか…,という感慨もあります。

 

f:id:sxucxo:20191201002538j:plain

 

フルトヴェングラーのベートーヴェン(1)

ベートーヴェン交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 
GLAND SLUMレーベルのオープンリールによる復刻シリーズ、ワルター以外にフルトヴェングラーにも手を染めています。「…モノーラルとは思えない広がりと瑞々しさ…」という平林さんご自身の帯の言葉通りの音質。初めて耳にしたときの驚きが蘇ります。いえ、今回の方がさらにインパクトがありました。遅いテンポで有名な第1楽章が、以前よりもさらに遅く聴こえてきて、冒頭数小節で思わず「お!」「おぉ」「おーぉ!」と三度も唸り声をあげてしまいました(笑)。これまでも良質のリマスター盤では幾度となく体験してきましたが、音が良くなり、空気感・臨場感も奥深く再現され、テンポまでがまるで異なって届く。最晩年のフルトヴェングラーによって、明るくない音色で深く沈潜するウィーン・フィル、どこまでも内向的…。古楽奏法が主流となった現代のベートーヴェンであってみれば、今後こんな演奏が生まれることはもうほとんど期待できないのでしょう。唯一無二…。

f:id:sxucxo:20191201002114j:plain