音楽の編み物

シューチョのブログ

○塾 -わじゅく- にて (2) 宇野功芳本質論

 しかし、作品のいのちは、演奏家の主観を通してしか出てこない、と僕は信ずる。──宇野功芳『名演奏のクラシック』(講談社現代新書,1990年,48頁)──

 

フルトヴェングラーの項で出てくる上記の一文に,塾長が,「きょういく読書会」で披露した自分の哲学的視点と大いにリンクする,と驚かれました。……おーぉ,言われてみれば確かに。「これです!これが言いたかったんや!」と,えらい食いついてくれた塾長,普段はクラシック音楽に特にご興味がおありというわけではおそらくなく,まして同曲異演比較鑑賞とかにはほとんどご縁はないと想像します。その彼がなぜ,というそここそが今は重要になってきます。宇野功芳本質論が,クラシック演奏批評という範疇を超え,まさに普遍的な人間の哲学思考/芸術観にまで届きえているということの証だからです。先生が亡くなって以後,宇野批評を土台にして作品と演奏の普遍性は語られえる,宇野功芳本質論はそのポテンシャルを確かに有する,とますます痛感し直していた(注)ところだった私にとっても,この思いもしなかったさらなる広がりは嬉しい驚きだったのでした。

 

注:「宇野批評にはすべて同意しなければならない」とかいうことではありません。当然です。いずれ詳述したいと思いますが,今は,そういう直截的皮相的なことではないとだけ。