音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (49)

 野口五郎を生で聴きました。カバー曲を多数含む新しいCDのリリースに合わせて行われた無料の屋外イベントで、「私鉄沿線」「魅せられて」「また逢う日まで」の3曲が披露されました。どの曲も予想以上によかったと思います。

 彼はトークで、歌はうまいが音程は多少怪しい某女性歌手や歌は下手なのに音程はなぜかピッタリの某男性タレントの例を挙げていました。僕は観客ゾーンからは少し離れた所で聞いていたので、小さめのトークの音声についてはよく聞き取れない箇所があり、女性歌手や男性タレントの例を映像におけるCG処理のごとく音声を事後修正した例だ、とはっきり言ったのかどうかまでは不明です。ただ、その場の感触では、女性歌手について「音程は多少怪しくとも、彼女の歌はやはりいい」とフォローしつつ、それと対比させて男性タレントを「音程を修正したところで下手は下手」と批判したように僕には聞こえました。それに続けて、ともかく「自分は原点に帰って、うまいとか、音程が合っているとかいうこととは違うものを示したい」というようなことを言っていました。伴奏を生演奏にした(からお金がかかった)とも。

 僕は小学生の頃、いわゆる「新御三家」では野口五郎が一番と思っていました。単純に、歌がうまい、と思って信用していたからです(むしろ大人になった今の方が寛容で、西城・郷の両人の魅力も否定できないと思っています)。そして、現在、まさに実演を聴いた今日、僕の中心的問題意識の一つである「旋律造型学」的視点から見ても、彼が「J-Pop」界ではたいへん貴重な“フレージングというものをわかっている歌手”であることが認められ、再評価するに至りました。──“フレージングというものをわかっている歌手”について、ここでは以前、絢香について書きましたパク・ヨンハについても、追悼の意を込めて、書かないといけませんね…──

 「私鉄沿線」

たぶんこの曲は歌うだろうと予測し、イベント現地へ向かう車内でシングルレコード版を予習したのですが、今日の歌唱はこの若い頃の歌唱と比べ、力がいい具合に抜け、その結果、彼が素で感じているだろう、歌詞とマッチした自然なフレージングがいっそうよく伝わってきました。

 「魅せられて」

一例を挙げると、「女は海」の「う」にアクセントが置かれる。たったこれだけで、この歌詞とそれに沿う旋律とが明快に伝わり、ジュディ・オング版だけ聴いていては気づかない「音楽的意味」に開眼させられるわけです。

 「また逢う日まで」

この「曲の」ファンは誰しも、後年の尾崎紀世彦の“崩し”を聴いて違和感を抱き残念がることでしょう。僕もその一人です。大ヒット曲を持つ歌手が飽きるほど歌ってきたそれを“崩し”たくなる気持ちはよくわかります。しかし、大概は崩さない方がよい。平浩二はそのことをわかってか、「バスストップ」を後年になってもレコーディング当時のままの節回しで(それ自体にも“崩し”があるのですが、それを変えずに)歌っていたようです。

しかし、単に頑固に「崩すのは×」というのも違う。もう一つの問題は、これも当然ですが「どう崩すか」でしょう。尾崎の“崩し方”はやはり少し不自然ではないでしょうか。特にサビの「閉めて」の部分は崩すべきではないと僕は考えますが…。

野口五郎はそういう疑問に答えるかのように「こうやってはどうです?」と新たな“崩し”で歌います。それがなかなか味がある。ひとことで言えば「センスの問題」ということになりますかね。急いで補足しますが、「また逢う日まで」の尾崎の“崩し”に「センスがない」とまでは僕は思っていません。念のため。むしろ「センスがあり過ぎ」「凝り過ぎ」の例ではないかと。では、センスのない“崩し”とはどういうものかというと、「世界に一つだけの花」の木村拓哉のソロ部分などがその代表例でしょう。

ただ、「センス」とまとめてしまいましたが、それは漠然としたことではけっしてなく、その気になれば「どこのどういう部分」かをミクロに指摘できる、非常に具体的な話であることも強調しておきたいところです。例えば、「逢える時まで」は崩さず(「で」は第1拍のオンビート(おそらくこれが譜面通り))、「話したくない」の「ない」で少し崩す(「な」をシンコペーション&僅かな下降グリッサンドにして引き延ばす)、というのは、野口五郎独自のセンスといえましょう。彼の“崩し”について記憶の限り列挙して解説したい欲求もないわけではありませんが、こういうことは逐一書いてしまうのは無粋でしょうから、これだけにしておきます。そして重要な点は、彼がおそらく、何となくではなく周到にやっているのだろうという点です。知性に支えられたセンス、ということですね。