音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (50)

 ここのところ、ここでは「本業」以外のジャンルについてばかり書いていますが、もうしばらくそれが続きそうです。

 ごく最近、いわゆる「歌謡曲/J-Pop界」にも、「同曲異演」が多数あることを知り、いささか認識を新たにしました。この「界」ではそれらは「カバー」という語で総称されているので、以下この語を使います。

 カバーをいろいろ聴くうち、「フレージング=旋律造型」の名手について、2人の例を発掘しました。「発掘」といっても、もちろん「僕にとって最近の発見」というだけで、とうにご存知の方もいらっしゃったことでしょうが…。

堺正章「さよならをするために」

 彼は3連符(→注1)を多用して、この歌の詞の持つ本来のリズムを旋律の中に埋め込むことに悉く成功しています。しかも、少なくとも僕は、彼の歌唱を聴くまで、この歌詞がそういう言葉の連なりであったことに気づきませんでした。いやあ、やられました。まさに「目から鱗」というか「コロンブスの卵」というか。また、音をほんの少し変えるだけで、この曲の「歌詞の乗る旋律」としての美感がいや増すかのような効果を上げている箇所があります。他にも、少し“崩し”たり、旋律線自体は崩さず歌詞の乗せ方を微妙に変更したりと、細かいことを実にいろいろやっています。そしてそれらのどれをとっても「なぜ坂田晃一はこう書かなかったの?」と問いたくなるほど(笑→注2)、堺のフレーズの方が自然かつ魅力的な場合がほとんどです。

注1…微妙なズレや崩れも含め、平均的に、彼の歌い方を採譜するならば3連符が妥当であろう、という意味です。

注2…「詞先」ならば、ということです。「詞先」「曲先」どちらなのでしょうか。「曲先」的な、器楽的名旋律ではあります。

堺正章見上げてごらん夜の星を

 特筆すべきは(1コーラス中では)1箇所のみ、しかしそこは、この歌を歌うなら誰しもどう歌うか工夫を施すだろう、小さな難所といえます。歌詞(の言葉の収まり)とそれが乗る旋律(の盛り上がり具合)とに齟齬があるわけですが、彼のここの歌唱法には「そうか、この手があったか!」と思わず膝を打ちました。それは、あえて大きな例を引き合いに出して言えば、かの、ワルターウィーンフィルモーツァルト40番冒頭の表現にも匹敵します。まず、表現方法=表現の具体的な形として似ています。そして何より、そこをそうするのは「普通」の美感からすれば明らかに「逆行」していて、頭の固い聴き手なら一聴して拒否反応を示すだろう、という点でも似ているといっていいでしょう。

上の2例では具体的にどうであるかについて伏せて書きました。次の例では明示してみましょう。

研ナオコ「さよならだけは言わないで」

 五輪真弓といえばまずこの曲ですね。「恋人よ」よりもこちらの方が数段いいと思います。さて、研ナオコはいわゆる中サビの「あのたのしい日々は…」の部分を、弱く、すうっと通り過ぎるように歌います。それによって後の本サビがぐっと活きて来る。それに加えて何と、次の「この街の角に…」から「…私の前に」までを区切らずに一息で歌っています。その技術も相当なものですが、技巧的なことよりも、ここのフレーズがそのように捉えられているという点が重要です。ここの旋律はこう造型されるべきものとしてあります。あるいは区切るとしても「春が来ても」と「明日からは」の間しかないでしょう。僕は、作曲者の五輪自らがここを「明日からは」と「一人」の間で切っているのを聴いてはずっと残念に思ってきたのでした。詞・曲両面からみて「そこだけは切らないでほしい」箇所です。五輪はそのブレスの位置を、おそらく熟考の末に決めたのでしょうし、凡人にまねのできない素早いブレスは、これこそかなり技巧的でさえあります。しかし、やはりそれはフレーズよりも他の事情が優先された判断と結果であることに変わりはありません。

研ナオコは他に「雨の物語」「時代」「わかれうた」など、カバーのクオリティが(自曲と同程度に)どれも高い。森昌子氷川きよしが自曲ですごい歌唱を聴かせるのにカバーになると今一つ突き抜けた所がない、というのと対照的です。

野口五郎堺正章研ナオコといえばカックラキン大放送だね」と家人に指摘され、おぉ確かに!と(笑)。何だかそれだけで「カックラキン」のバラエティとしての質の高さを想像してしまいました。僕は同番組は初期クールしか見ておらずあまり憶えていないのですが…。

というわけで、どうぞ一度、(前回および)ここに挙げたものを聴いてみて下さい。