言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (42)
サンケイホールブリーゼにてエリック・ハイドシェックを聴きました。
本割りは
シューマン:「子どもの情景」
休 憩
ハイドシェック:5つのプレリュード
ドビュッシー:「子どもの領分」
ハイドシェックの生は、“伝説の宇和島ライブ”と同じ曲目だったいずみホールでのリサイタル以来です。そのときはいささか不調にみえ、さすがに衰えたのかと残念でしたが、そうではなかったようで、今回は、ハイドンはルバートにあふれ、ドビュッシーは“ピアノを忘れる”ほどの巧さが冴え、才人の健在ぶりを目の当たりにしました。2つの組曲の曲間では、ペダルは生きたままにして、残る手足でズレた椅子を直しながら音楽的にはアタッカにしていく、というスゴ技もときどきみられました。
本割りが軽めの曲目ながら、アンコールは以下の8曲(半?)におよびました。毎度のことです。ピアニストのリサイタルはオーケストラと違ってアンコールは多いものですが、ハイドシェックは特に多い。それでも「若い頃はあと2、3曲はやっていたぞ」と古顔の通なら言いそうかも、という根拠のない予想も立ちました。
ハイドシェック:自作曲
ハイドシェック:自作曲
シューマン:ロマンス
ベートーヴェン:バガテル作品126─3
ヘンデル:パルティータ第1番よりプレリュード
ヘンデル:パルティータ第2番よりプレリュード
バッハ:バルティータ第2番よりサラバンド
──この間にもう1曲あったような…──
シューマン:「子どもの情景」第2曲から冒頭数小節
アンコール1曲目の前にはかなり長く詳しい解説。「最近に作った」とたぶん言っていました。英語のようなフランス語のような、たぶんフランス語訛りの英語でしょうが、早口なこともあり、内容はあまりわからず。アンコール2曲目の説明は短く、8割方わかりました。「太陽が照りつける砂漠を一人の男がさまよい歩き、ついにはたぶん死ぬのだろう」というような曲とのこと。リストは終演後の発表によりますが、「自作曲」ってそれはわかっとるっちゅうねん、とつっこみつつ、さすがに同時通訳的要約などを出すのは無理だったのだろう、とも。確かに彼は解説はしても曲名は明言しなかった気がします。
ベートーヴェンの前には、椅子が後ろにすべってずれて困ったというようなことを、ジェスチャーとともに面白おかしくしゃべり、最後のシューマンはサッとやめて「もうおしまいでよろしく」という感じのアピールを客席に向け、下手へ去っていきました。彼のこのようなユーモアと、変幻自在な音楽の表現とは、やはり関連があるのでしょう。脱中心的な、標準・伝統・正攻法といったものの束縛が極小の、しかしそういうことを目指してそうするのではない、“肩の力の抜けた”行為としての芸術表現。「さりげなく」というのでもない。むしろ「さりげある」。あのように、このように、そのように、どれもこれもそうせずにはおれない、と意識するのが先かどうか、もうそうしてしまっている。そういう行為・表現に満ちている。そしてそれに自ら照れているようなところがある。
初めてのサンケイホールブリーゼは、2階席が高い位置にあって階段で行くとちょっとつらかったものの(係員がエレベータをひたすら薦めていたわけです)、今回の席(最後尾近く)からでも見やすく聴きやすい客席配置は奏功しており、十分報われました。音がよく届き、いい響きでした。