音楽の編み物

シューチョのブログ

再 会

八月某日、高校時代の「師」福岡徳人(ふくおかなると)さんと約40年ぶりに再会を果たし、長時間に渡る会談が叶いました。

 

福岡さんは、東京藝大作曲科で松村禎三氏(19292007 現代日本を代表する作曲家)に師事されました。松村氏の当時の弟子五人は周囲に“ロシア”ならぬ“松村”五人組?のように称されていたそうで、その中のお一人です。

 

現在は、ピアノ教室を営んでいらっしゃいます

 

アートサロン音楽院

https://pnet.kawai.jp/589608/

 

中高とも同じ母校ながら3歳差なので現役時をともに過ごしてはいませんが、福岡さんは卒業してからも度々吹奏楽部の練習に訪れられ、私は在校中の数年間に渡ってクラリネット、指揮法、その他音楽全般について、吹奏楽部活動時やその帰り道などに、直に手ほどきを受けました。

 

音楽の専門のキャリアがない私には通常の意味で「師事した先生」はいません。それだけに、青春期、ほぼ同世代の福岡さんから受けた具体的な言葉・実技・実演による影響は、時間/回数自体はいわゆる音楽家の師弟関係に比すればごくわずかなものながら、たいへん大きく、今でも音楽・指揮について私の言うこと為すことの根っこの所に色濃くその跡が残って(いると自分では思って)います。

 

貴重で濃密なお話の数々にすっかり聞き入り、まったく時間を忘れて過ごしました。この私に一対一でしてもらったお話として大事に胸に納めておきたい気持ちと、余すところなく書き綴って広く伝えたい気持ちの両方があり。いずれにせよとてもここに書ききれるものでもなく、ごく一部の話題に絞ってかつ大まかに、とはなりますが、ぜひご紹介したく。

 

======

 

藝大時代のことは、昔にもお聞きしたお話に加え、初めて聞くお話も多くあり、長くまた深くお聞きできました。松村禎三氏のことも、作曲の才に限らず、並々ならぬ人柄の温かさなど、他ではまず聞けないお話を惜しみなくして頂けました。

 

作曲科時代の吹奏楽作品「バラード」を、箕面高校吹奏楽定期演奏会にて私の指揮で初演させてもらったのですが、その録音を、今回改めて一緒に聴くことができました。オーディオ装置の無い部屋でPCでの再生という形でしかご用意できなかったものの、福岡さんは、一音一音、当時の作曲過程を遠く思い出されるように耳を傾けていらっしゃいました。私はというと、当時の仲間の各奏者の演奏は皆、アマチュア高校生ながらこの難曲をよくぞここまで吹いた/叩いたなぁ!と労うに相応しい頑張りを聞かせているのに対し、同じく“アマ高”の指揮者についてはその造型の浅さ青さばかりが耳について「今もう一度振れれば、初演者として他の誰よりも自信を持ってできるのに」と心の中で呟き唇を噛みつつ聴きました。

 

 

ピアノ教室を開かれてからのエピソードもたっぷり伺うことができました。

 

生徒さんお一人お一人を、ピアニスト志望か否かに関わらず、目先のコンクールの結果等だけに囚われず、芸術・音楽を人生に大切なものとしてそれに継続して関わっていけるよう、長い目で指導していらっしゃるとのお話

 

──2021年のショパンコンクールでは小林愛実さんが一番よかったと思う、と言った私に応えられた──(お弟子さんではない)小林愛実さんの小学校低学年時の生演奏に接してその才能の途方もなさに心底驚き「ショパンコンクールを制す初の日本人はこの子になるだろう」と予想したお話─その時の小林さんの様子、交わした対話─その後の交流も通じた彼女のエピソード

 

ショパンコンクールに限らず音楽演奏のあらゆるコンペティション、コンクールとその賞与についての “一位はたいていつまらない” 😆(注)

 

等々、興味・共感が尽きませんでした。

 

注:このニュアンス、伝わる人には伝わるかと。ただ、このように(ウケねらいで🙇‍♂️)書き留めるだけではいくら何でも単純化のし過ぎです。私なりに咀嚼した私論としてまとめる機会があればまた。

 

 

他にも、作曲家の視点とピアノ演奏指導家の視点を総合した、作家・作品・楽譜・表現・奏法等に関わる具体的なお話は、そのほとんどすべてが、我が意を得たり!と膝を打つものであり、とても心強く嬉しくなりました。って、もともと福岡さん仕込みの芸術観・音楽観をベースに歩んできた(=帰り道についてきた)“音楽の道楽者”が私なのですから、当然そうなるとも言えます。そのことが嬉しい。こうして35年以上の時を経た今、厳しかった大先輩から改めて「答え合わせでたくさんのマルをもらえた」みたいに、何とも嬉しいのです

 

 

今回の会談で福岡さんが幾度か口にされた「嘘のないことを」という言葉。──それを受けた私が今、蛇足を付加するなら──芸術・音楽への態度・姿勢には、チャールズ・テイラーもいう「ほんとう(のこと)/ほんもの authenticauthenticity」の概念が軸になる。そのことを改めて胸に刻みつつ、再会をお約束してお別れの挨拶を交わした夜更けでした。

 

======

 

 

当ブログ上で、福岡さんをご存知でない方にも何とか“わかりやすく伝えたい”──この「わかりやすく伝えたい」っていう考え、大概要注意ですよね。自分がそれをしてしまっていて苦笑するしかありません──という気持ちもあるため、著名さや“権威付け”のようなエピソードを重ねつつの書き方に。それはもちろん、わるいばかりでないからこそ採る一つの方法ではあれ、「人脈や“実績”─の特に名前や記録の部分─はあくまで“ツカミ”に過ぎず、大事なのは“オチ”の方、つまり人脈の名前や記録の「中味」および本人の「中味」はどうかということの方です。あえてわかりにくく言うと、福岡徳人は、少しも偉大でなくはない。そのような人の呼吸を身近に感じ過ごした若い時間の価値、そして時を経ての再びの僥倖、その貴さ/ありがたさを伝えたいのでした。

 

 

──「感化力の基にあるもの」(アートサロン音楽院「トピックス」、2015年)より──

 感化力の非常に強い演奏があります。聴く人の価値観、常識、好み等を超えて感動、共感の輪が拡がっていくような演奏です。

 一方、大変よく勉強をし、上手に演奏しているにも拘らず、印象に残らずただ通り過ぎて行くだけのような演奏もあります。

 

 どこに違いがあるのでしょうか?

 

 コンクールなどの現場では、前者の様な演奏に憧れ、それを目指した場合には、感化力が説得力を持つに至るところまで磨き込む事が出来なければ、各人の好みの違いや既成の常識等の壁に阻まれ、不遇な結果に終わることが多いように感じます。

 逆に後者の場合には、爆発的な高得点は望めないかもしれませんが、上手に弾けてはいる以上、減点するわけにも行かず、平均的にはそこそこの得点となり、受賞の栄誉に浴する事も少なくありません。

 

 皆さんはどちらの演奏を目指したいと思いますか?

 

 芸術の本来の使命は、時代を超え、人種や地域、性別なども超え、多くの人々の魂を感動のバイブレーションで揺さぶり、普遍的な美の世界が存在することを示すことにあると思われます。

 岩間に健気に咲く花を見て美しいと感じる心は、教えられてそう感じるのではなく、私達が生まれつき普遍的な美を解する心を持っていることを示しているようです。

 前者の様な演奏に出逢った時には、自分の人生に新たな喜びが一つ加わった様で、とても幸せな気持ちになります。

 一方後者の演奏は聴いても全く他人事で、自分の人生には何の意味も持たず、何の変化ももたらしません。

 私は例えコンクールであったとしても、演奏はその人が何を美しいと感じ、何に感動しているのかの美意識の発表の場であると考えています。

 このように弾くことが良いことだと教えられ、場合によっては有利だと教えられ弾くだけでは全然物足りません。少なくとも自分の心がそれに共感し、心が震える位の所まで掘り下げていなければ、いくら上手であったとしても聴衆に感動が伝わっていくはずがないではありませんか。

 芸術に関わっていく以上、心にもないことはしてはならないのです。本心から美しいと感じ感動している処の魂の喜びを、赤裸々に語りかけ表現し、共感の輪でもって拡げていく、ここに感化力の基となる前提があるのだという事を、私は信じて疑いません。

────

全文

https://pnet.kawai.jp/589608/topics/77617/