音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (21)

 某放送局の合唱コンクール課題曲を紹介する番組をやっています。中学校の部のための「手紙」という歌の混声合唱版の模範演奏をやっています。

指揮者(指導者)は、この曲を演奏するのに一番大切なことは「本気で歌う」ことだと言います。こけますね。本気で歌わない方がよい歌があるのでしょうか。せっかく編曲者が「表情記号はあまりつけませんでした。それは何もするなということではなく、自分たちで自由に作ってみて下さい」と言っているのだから「私はここでクレッシェンドをしてみました」とか、そういう具体的なことを言ってほしいですね。

で、「本気で歌う」ためのポイントの一つとして「はじめに言葉ありき」と言います。そして言葉を大事にしない演奏例(1)と大事に咀嚼した演奏例(2)とを見せます。大事にと言ったって、両者の違いはほとんど、文や節や句で音符の末尾を切るか切らないかだけ(それと(2) には微妙かつ妙な漸強弱も付いていました)。べったりと切らずに通した(1)の方がまだしも音楽的でしたねえ。(2)では「何をしているのだろう」を歌うのに「何をして、いるのだろう」と切っていました。?? ま、確かに「何をしていながら、居るのだろう」の可能性もなくはないのですがね…。言葉を大事に。もちろんその通りで、本来「べったり」よりは詞と曲がタマゴとニワトリのように融合一体した方がよく、(1)を聴いた直後、僕は自分ならこの曲の言葉をどう歌にしていくか、同じことをとっさに考え、頭の中で歌い出しからしばらくをイメージしました。そして(2)を見て聴いて、その目の前の演奏の乏しい表現にがっくり来るわけです。違いを見せると言っておいて、それか?と。数秒間で作った自分のイメージの方がかなり豊かなのです(笑)。

もっと具体的な指示を、と言いましたが、一つありました。途中、偶数拍(拍節が倍だとすると裏拍)に手拍子が入って唖然。初めは編曲がそうなっている(楽譜の指示)のだと思ったのですが、何とこの指導者の指示・表現だそうです。「やり過ぎると肝心の歌を損なうから注意」「もちろん、入れなくてもよい」などと言っています。どうしてこうなるかなあ。『天使にラブソングを』以来でしょうか。映画の感動の価値(こちらももちろんそれ自体は貴いものです)と、自分たちの合唱による芸術活動の価値とを混同してはいけません。全国の中学生のみんな、まねすんなよ〜。