音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (14)

 竹内敏晴を何冊か読みました。

(1) 『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫、1988年)

(2) 『待つしかない、か。 二十一世紀 身体と哲学』(春風社、2003年)

(3) 『教師のためのからだとことば考』(ちくま学芸文庫、1999年)

(4) 『話すということ(ドラマ)─朗読源論への試み』(国土社、1994年)

 (1) は自伝的エッセイ。「劈かれる」って難しいですね。「劈く」で「つんざく」なんですが、竹内はこれで「ひらかれる」と読ませます。竹内は、幼少から青年時代にかけて、耳の病気がだんだんわるくなり、聞こえない状態になってから、また徐々に聴力を取り戻す、という過程を辿ったそうです。これに限らず、竹内の文章からは、「ことば」と「からだ」に対する、奥深い、しかしたいへん具体的な思考・思想が読み取れます。僕もいつかは読みたいと思っているメルロ=ポンティの話も出てきて、その思いを改めて強くしました(笑 いつになるやら)。

 (2) はハイデガーメルロ=ポンティの研究で知られる哲学者・木田元との対談。戦中戦後が青春であった、僕の父よりもさらに少し上の世代に共通の、何もかもひっくり返ったことへの懐疑的思考とでもいったらいいでしょうか、その深みに触れることができます。二人とも、戦後の民主主義は内側からの民主主義ではないことを問題とした上で、しかし、昔に戻るのがよいのでは決してないと言い切ります。そして、ハイデガーの後期思想からの言葉「待つしかない」を引く。しかし「待つしかない、か。」と問う形にし、含みを残す──。

 (3) 僕が「わかる人、わかる時、わかる可能性」で論じたような、教師の言動というものに対し、竹内ならではの切り口で問題にしています。「相手に声が届かない」とはどういうことか。竹内はやや「からだ」という観点に偏り過ぎているのではと思える節もあるのですが、それがあってこその独自の深みをどの著書も持っている。

 (4) は、「言の葉と音の符、楽の譜は文の森」で論じた朗読をテーマにしているので手にとりました。竹内は、朗読は話しかけることと同じ、と言うので、おや?少し違うかと思いきや、テキストがあって話すことが決まっている「話しかけ」が「朗読」だ、という意味らしく、納得しました。