音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(1)

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実際、この波動と粒子の問題において、ほかのどんな問題においてよりもいっそう、痛感されることは、われわれが直接的経験というものによってどんなに悪く教育されているかということであり、またわれわれが、どれほどまでに、初期の力学的経験の一面性の犠牲となっているかということである。

──ガストン・バシュラール『新しい科学的精神』(関根克彦訳、ちくま学芸文庫、2002年、106頁)──

 

 

 こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。

 

 ガストン・バシュラールといえば、白く長ーい髭の写真が印象的ですね。ブラームスみたいです。上記は、当然ながら、物質における「波動と粒子の二重性」のことを言っているのですが、改めて哲学的・思弁的なバシュラールの文章を読んでこのことに触れることで、私の考えは、スーッと飛躍して、次のアナロジーへと向かいます。 すなわち、音楽における「情熱と数理の二重性」です。数理的音楽美にももちん感動が伴うのですが、情熱性における感動とはその質・次元が異なるように思えます。それこそ、物質の「波動性と粒子性」のごとく、ときに矛盾さえするのではありませんか。しかし、その矛盾をも包容したものが音楽であるのです。

 

実際、例えば「音程を合わせなければ」とか「タテの線くらいそろえなければ」とかいう「数理性(の義務化)」の世界─の中でもこれらの例は悲しいほどに次元の低い例ですいません─に捕われていては永久にほんとうの音楽には至れないことは明らかですが、そういうもの・意識についつい捕われてしまうほど、われわれは悪く教育されています。われわれがどれほど音楽の技術的困難という経験の一面性の犠牲となっていることか、ということです。