音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性(6)

吹奏楽部顧問時代(1994─2009)の演奏会パンフレットより 1999年(ウェブ初公開は2006年10月)

 指揮者とは何か。指揮活動とは何か。小学6年の運動会でのドラムメジャー(バトンとホイッスルで鼓笛隊の行進を率いる先導者)の経験にまでは遡らないとしても、中学2年にピンクレディーの「UFO」を指揮したのがデビューとすれば、20年はやっていることになります。高校時代のテーマは「如何に指揮するか」でした。いわゆる指揮法(指揮の技術)です。小澤征爾の師・斎藤秀雄が著した指揮法を独学独習し、「よい指揮とは」と考えたものです。「斎藤メソード」の指揮法はもう自在に操れる、との自負も持ちました。しかし、ブルーノ・ワルターのレコードに感動しワルターを心の師と仰ぐようになるのも同じ時期です。小澤的指揮でワルター的演奏を目指したわけです─何と矛盾に満ちた目標でしょう。今となっては苦笑せざるを得ません─。大学オーケストラの学生指揮時代になると、「修得した指揮法でどう表現するか」という、より深いテーマへ移行しました。ところが、こういう指揮法というのは、それだけでは奥の浅いものなのですね。所詮は私のような音楽専科でない高校生が数カ月で独学できる程度のものです。「型に入れ。そして、型より出よ(斎藤秀雄)」と言われ、私もその道を辿ったようです。でも、ほんとうでしょうか。芸術の型=フォルムとは、それ自体が創造の目的の一つであり、何か“鋳型”や“基礎技術”(斎藤の言う「型」)のような、そんな説明のつきやすいものではないはずです。

吹奏楽部の彼女らは、私の指揮に対してときにプロも顔負けの反応力を示し、ときに予想しえない芸術力を発揮します。頭に描いた音楽表現が彼女らの吹奏によって音として次々と実現していく。指揮者としてこれほどの喜びはありません。が、それは同時に、「指揮者存在」の全権性とそれゆえの危険性を深く自覚させられることでもあります。その双方を知ってなお指揮台に上がる僕は、彼女らの真剣な眼差しを前にし、そして聴き手のみなさんの耳を背にし、驕らず、怯まず、自分という人間全部を賭けて向き合うしかないのでしょう。