音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (60)

 以下は(「タッチ」の項の一部を除き)、そのほとんどを、クリス・ハートの1枚目のカバーアルバム「Heart Song」の発売・購入直後に書いたものです。少々筆が滑り過ぎている箇所が散見するので発表を控えていました。でも、当ブログで小田や桑田のそれぞれわずか2、3曲を少々辛く評したからといって、彼らの今日の「地位」には何の影響も与えないでしょうし、もし彼らのファンがこれを目にしたところで逆に鼻で笑ってくれるだけでしょうから、特に手直しせず公開します。ということで、異なるご意見があればぜひコメント下さいませ。と同時に、もちろん意見の一致もお待ちしています(笑)。

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のどじまん・ザ・ワールドの常連たちについて、少し書いておこうと思います。

まずはクリス・ハートのCD「Heart Song」が発売されましたね。

僕はこれを聞いて、ここに歌われる3曲「言葉にできない」「さよなら」「たしかなこと」の美しさに初めて気づかされました。つまり、小田和正の曲は、小田が自分で歌ってしまうから、これまでスポイルされていたのですね。卑近な例ですが、吹奏楽でいえば、アルフレッド・リードの自作自演と同じことです。「何でまた?…、自分で書いたんちゃうのん?」という…。これまで、オフコースなり、小田和正なりは、(わるい意味での)軟弱男のじめじめくねくねした世界観に、ほんとうにイライラしたものでした。特に「YES-NO」や「さよなら」は、僕にとって、いわゆる「日本歌謡/J-Pop」の中でワースト10を挙げよと言われれば必ず入ってくる曲でした。

さて、クリスですが、3曲とも、みごとに本質を鷲掴みにしています。「外国人が日本の歌を歌う」ということで、彼らの日本語のうまさ、歌詞をいかに自家薬籠中のものとしているかという点の方が取り沙汰されるようです。ご本人たちが「歌詞やその意味を大切にしている」と語るのはほんとうに貴いことで、そこに僕ももちろん感銘を受けます。が、「彼らの歌う歌がなぜすばらしいのか」を考えるときは、やはりそれだけでは足りません。彼らは歌を歌っているのであり、音楽をやっているのですから、詞よりも曲が第一義であり、「外国人なのに日本語の美しさがよくわかっている」とかいうことよりも、(詞ではなく)曲の音楽としての歌唱がいかにあるか、ということが大事なのです。そこに、詞そのものやその歌われ方は、もちろん深く関わってはきますが、あくまで二義的な、主従の従としての要素です。

もう一人、ポール・バラードも「さよなら」を歌っています。これも実にすばらしい。好みだけをいえば僕はポールの方がさらに好きです。冒頭、「もう終わりだね」の「もう」から、もう(笑)ポールの世界に突入できます。

タリーク・ホルムズの「タッチ」もすばらしい(音質・画質があまりよくないのがたいへん残念です)。

この「タッチ」、テンポの設定がすべての決め手となっています。通常よりずっと速く、というより、拍節が明らかに異なっていて、(元が4分の4拍子なら)2分の2拍子=アラブレーヴェで進んでいる。この軽妙快適なドライブ感に一度触れてしまうと、そうか、これが「タッチ」という曲の「ほんとうの」テンポだったのだな、と思ってしまうほどです。その後、ここにも書いたように通常テンポによる林あさ美の名歌唱を知ったこともあり、タリークの方法が唯一正しいとも考えませんが、一つの本質を突いたアプローチであることは間違いありません。

その昔、吹奏楽で(も)「It's Magic」という曲が流行り、僕にやる機会があれば必ず「アラブレーヴェで快速に行こう」と思って、自分でわくわくしながら想像していました。というより、巷の普通のテンポの演奏がかったるくて聞いていられなかったのです。それは僕にとっては、まるで45回転のレコードを33回転で再生しているかのような、アホらしいほどのスローモーションに聞こえたのした。この曲の「本質的な」拍子とテンポは、僕にはどうしても「2分の2拍子で、2分音符=96(4分音符=192)程度」であるように感じられます。「快速」と書きましたが、別に「速くやりたい」「スピードを体感したい」のではないのです。このように造型すればむしろ聴感としては「落ち着いて聴こえる」はずです。

 クリスやポールをはじめとする、世界(海外)の、すばらしい音楽の才能を持った人々が、音楽として日本の歌に惹かれるという現象は、

「日本語の歌詞を持つ日本の歌」の曲=旋律が、ある種の普遍性を持つ証拠ではないか

というのが現在の僕の見方です。それはつまり、

日本語には、原則的には、撥音・促音を除いて子音のみの音を持つ語句が無く、旋律に乗せたときに、「無音節の子音の発音・発声が間に挟まれて旋律線がごまかされる」ことが無い、そのことによって、旋律構造・造型が自然と鍛えられ、曲自体の品質が平均的に高い、という結果を生んでいるのではないか

ということです。ピアノか何かで、「歌詞無し・伴奏無し・和声無しで、曲の旋律だけを単音で、しかもなるだけ抑揚をつけずに単調に演奏してみる」ということをやった場合に、その旋律自体がどれほどのものであるかが浮かび上がります。つまり、あえて非表現的・非音楽的に演奏(再生)してみることで、その旋律の素の姿が露になるということです。そうすると、例えば「ニューヨークシティセレナーデ」のサビは、単純な同音羅列と音階下降に過ぎず、弾きながら思わず笑ってしまいかねないのに対し、「さよならをするために」(ビリーバンバン坂田晃一)の歌い出しは、音符の巧みな移動そのものが旋律美を作っていることがわかるでしょう。「さよならをするために」の歌い出しに似ている曲の例として「エーゲ海の真珠」を挙げてよいでしょうが、これはいわゆるイージーリスニング・オーケストラのレパートリーとして知られる“歌詞のない音楽”の典型ですね。もし、洋楽ファン自身が、洋楽に日本語の歌詞を付けた(または和訳した)ものを「日本語にしてしまうとダサい」と笑うとすれば、それは自ら洋楽の旋律構造の稚拙さを認めてしまったことになる、という側面があるわけです。

当然ながら、日本の歌にも、この観点からみて、すぐれたものとそうでもないものの両方があるわけです。後者の代表を一つ挙げるとすれば「いとしのエリー」のサビでしょうか。ピアノやリコーダーでこれを弾いて(吹いて)見て下さい。「無邪気に on my mind」や「エリー、my love so sweet」の部分など、音符密度が異常に薄く、もはや旋律の体をなさないほど切れ切れであり、文字通りの“間抜け”ぶりが際立ちます。この曲を名曲と思う感性があるとすれば、それは、意識的にか無意識的にか、雰囲気にのまれているのであり、桑田佳祐が雰囲気込みで「曲」を作り上げる天才だということの証左となりましょう。本稿は桑田批評が目的ではありませんが、下げるだけも何ですので付け加えておくと、「愛は花のように(Ole!)」の旋律は彼の傑作だと本気で思います。それだけでなく、他にも彼の曲で旋律自体が美しいものはいくつか浮かびますし、僕の知らないものも多数あるのかもしれません。

このように書くと、「和声(コード)進行の重要性」を見落とすなという声が聞こえてきそうです。さだまさしが、弾厚作加山雄三「旅人よ」の歌い出しから5〜6小節めの和声進行を「当時としては事件だった」と述べた例を僕の知見からは挙げることができます。まったく同感。あるいは、山下毅雄ルパンIII世第1シリーズエンディングテーマ(「足下にからみつく〜」の歌い出しのあの曲)」の和声進行の浮遊感もすごい。

しかし、ポップス畑の作曲が多くギターを抱えてコードを鳴らして…というスタイルで行われるために誤解されやすいのでしょうが、「コード」が歌曲そのものにとってつねに原初的なものとは限らないことは少し考えれば自明なことです。和声が音として実現するには伴奏が必要で、歌曲にとっては、旋律が素の身体であり、和声は1段上位の「仕立て」といえるでしょう。また、旋律の音構造によって必然的に和声の種類は限定されていきますが、それは一通りとは限らず、だからこそその多様性は論じるに値する。つまり、「トリスタン和音」とかを持ち出すまでもなく、やはり和声論と旋律論は区別できるし、ここではそこを区別した、「素の旋律論」序説を述べたわけです。ニューヨークシティセレナーデの魅力は、まさに和声の仕立てのセンスが光るがゆえのものともいえ、それは十分承知しているつもりです。ここではまさにそのことを裏から述べているともいえます。