音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (17)

エンタの神様」を久しぶりに見かけましたが、あきれた光景を目の当たりにしました。

それは生徒会長金子のネタについてでして、大筋は

急に話の中に、はるな愛さんを登場させる。はるなさんが普段メディアに公開している程度のプロフィールを知っている客なら、なぜここで「はるな愛」が出てくるのかがすぐにわかるしかけになっているため、そういう客に対してはここでウケが狙える

というものでした。だから、もしこれをおもしろいと思って笑うなら、そのタイミングとしては、「はるな愛」の名前が出されたその瞬間(の直後)しかないはずです。で、知らない人にはウケない、それでいいし、このようなネタはそれだからこそのネタのはずです。案の定、誰も笑わない。「笑うならここやろ」と一人つっこみ。…とここまでなら一昔前からよくあることでした。ところが金子は、そのオチがオチとなる理由=はるな愛のプロフィール的情報の一つをネタの中で説明したのです。何それ? で、そこで笑い声の歓声が起きるという…。「説明しよう!」は、『ヤッターマン』で山寺さんが言うからおもしろいのであって、話芸の芸人が自らするのは本来自殺的行為のはずです。いやあ、TVのお笑いというのは、ほんとうに落ちる所まで落ちてきているのですね。何ともお寒い状況。

この番組では、芸人のネタについて収録時にスタッフがさんざんダメだしをしてTV用に“わかりやすく”なるように仕込むという噂を聞いたことがありますが、これもそうなんでしょうか。ひょっとすると金子自身のネタの“初期設定”としては説明のくだりなどなかったかもしれない、ということです。だとすれば、スタッフも客も芸人自身も、芸能・文化に自ら携わりながらそれらの何も大事にしようとしていないということですね。視聴率に任せて垂れ流すのみ、一過性でよい、廃れればまた次の何かを仕掛ければよい…というだけのもの。

例えば、上記でネタを直接には引用しなかったことが、実にささやかではありますが“大事にする”実践です。僕は生徒会長金子をこれまで何度か見てツマランなあ…と思ってはいますが、今後どうなるかまではわかりません。だから、がんばるならがんばれヨ、ダメだしになんかのらずに行けヨ、とあえてエールを送ってもいい。ま、もしももともとそうだったなら、もう知りませんが(笑)。