音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (21)

 オリンピックについて、無視すればよいものを、どうにも辟易する気持ちを抑えきれませんで、いくつか書きます。もちろん、北京には行っておらず(笑)、TVを通じて見ましたので、TV・メディア・報道についての問題点をいくつか。

第一。「解説者」の絶叫は何とかならなかったのか。当然ながら特に金メダルのときがひどい。「よし!」とか「やったー!」とか、心底萎えました。だから、確か「ちちんぷいぷい」でしたか、元NHKアナウンサーの杉山邦博さんが、北島選手の100m平泳ぎゴール時の実況方法について「(ゴールなどの)大事な瞬間では、むしろ、解説者のマイクはオフにして…」とはっきり指摘したときには、ほんとうに溜飲の下がる思いがしました。杉山さんは、解説者だけでなくアナウンサーの実況についても次のような主旨のことを言っていました。

自分たちが騒いではいけない。「やった!」とかいう感情的な言葉だけではなく、例えば「58秒91!世界新記録!」というふうに「体言止め」を使って伝えれば効果的だったのです。簡潔に、しかしはっきりと、必要な情報を伝える、それによって、視聴者のみなさんの方で新記録だ!すごい!やったー!というふうに感動してもらえる。

さすがは大相撲実況の名物アナウンサー、「体言止め」という指摘が具体的で嬉しい。

第二。「親子の絆」とか「娘との約束」とか「妻と子に見せる」とか、選手の家族の声や家族との関係の話題を採り上げる時間があるなら、他国他選手の競技をもっと見せよ、と言いたい。類似しますが、「みんなの応援のおかげ」「感謝」「仲間を信じる心」などもよく言われます。が、スポーツの面白さ・感動はそんな所にあるのではないでしょう。競技・試技の「実際の運び」、その過程および到達点こそが、見ていてすばらしければすばらしい、そこが本質ではないのでしょうか。それとも、「家族の絆」や「仲間を信じる心」を補強して伝えなければ感動を呼び込むことができないほど、本来、スポーツというものは他人が見てもつまらないものなのでしょうか。いや、案外そうかもしれない、とひとまず言っておきます。