音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (3)

──本稿とも関連する「さかあがり英作文.JP」について、大幅に改訂加筆した【新版】(タイトル未定)の連載を遅くとも年内に開始する予定です。乞うご期待。(2012年10月追記)──

 ようこそ、みなさん。「われ知少なし、ゆえにそれを求める」さすらいのフィロソファー(注)、「知ろうとする素人」ことシューチョです。今回の「拾い読みクリティーク」では、和文英訳の問題という「風車」に立ち向かうことにします。

注:philosopherとは哲学者ですが、ここでは「知(sophia)を愛する(philein)」という「哲学(philosophy)」の語源に戻った意味を込めています。

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  英作文解答に関する「好奇心のわだかまり」について

 次は、大学入試に出題された英作文の問題文です。

───

 子どもは好奇心のかたまりだ。それが,多くの動物の場合,成熟すると幼いときほどには好奇心を示さなくなるらしい。ところが,人間は年をとっても,様々なことに対する興味を持ち続けることができる。してみると,人間はいつまでも子どもでいられるという特権を享受する幸福な種族であるかもしれない。

───[2001年・京都大学](注)

注:大矢復『大学入試 最難関大への英作文』(桐原書店)より引用(127頁)。出典によって助詞や文字遣いがわずかに異なるようです。

 さて、この全文の内容を踏まえた上で、話題にしたいのは、その第1文の英訳です。英作文参考書は、この第1文にどんな和訳例・解答例を与えているのでしょうか。

─(1) ─

 Children are full of curiosity.

──(大月照夫 『京大の英語25カ年』 教学社、2004年、311頁)

──(鬼塚幹彦 『「京大」英作文のすべて』 研究社、2005年、11頁)

─(2)─

 A child is curiosity itself.

──(大月照夫 『京大の英語25カ年』 教学社、2004年、311頁)

─(3)─

 Children are very curious.

──(河村一誠 『減点されない英作文』 学研、2006年、126頁)

 ここまでは大差ありません。どれも簡潔な第2文型による表現となっていて、構造も意味もしっかり原文と呼応しているといっていいでしょう。ところが次の例はかなり様相が異なります。

─(4)─

 All animals, including human beings, are curious while they are young.

──(大矢復 『大学入試 最難関大への英作文』 桐原書店、136頁)

 第2文型であることには変わりありませんが、何と、主語が All animals となり、主節以外に節が2つも付加され、しかも1つは分詞構文の挿入です。肝心の、原文文頭の名詞「子ども」の訳語はというと、形容詞に変えられ、主節ではなく副詞節の末尾に現れます。和文英訳の際、時と場合に応じて構文や語彙に工夫を施すことになりましょうが、それにしても、この訳例には私は唖然としました。大矢は、これについて次のように解説します。

──

 第1文の「子ども」は人間の子ども,動物の子ども,双方を指している。「幼いうちは人間であれ動物であれ,みな好奇心旺盛だ」と言いたいのだ。

──(前掲書、127頁)

 一読したところでは「おぉ!なるほど」と思わず唸らされます。原文全体の意味を踏まえた上での解説としては、これ以上の論理性は望めないといっていいでしょう。しかし、英作文とは、あくまで原則としては、「原文そのものの英訳」が求められるのではないでしょうか。大矢の解答はもはや「原文の英訳」とは言えず、「原文の解説の英訳」または「英語による原文の解説」の範疇に属すると考えますが…。

 英語の参考書にはたいてい「英語(日本語)をそのまま日本語(英語)に置き換えるだけではとんでもない間違いを犯す」「大切なのは英語的発想だ」などと書かれています。その通りであるし、文法の誤りを含んだり不自然に過ぎたりする稚拙な直訳を目指すわけでないのは当然です。ときには、日本語の表現に固執しない「解説の英訳」「英語の解説」に当たるような解答を工夫することにもなりましょう。しかし、今はそのときでしょうか。

 「Children are very curious. But animals become less curious when...」(前掲書、127頁)のような訳例を「意味不明」(同前)とし「正しくは」(同前)(4) のように「できそうだ」(同前)とする大矢の主張は、さすがに行き過ぎなのではないかと私は考えてしまいます。この原文全体は、確かにある種の曖昧さを醸し出しています。けれども、ほかならぬ原文が、そう述べているのですから、その同じ曖昧さがそのまま反映された訳文の方がむしろ正しい、とは言えませんか。試しに、それぞれの解答を和訳してみましょう。

(1)' …子どもは好奇心に満ちている。

(2)' …子どもは好奇心そのものだ。

(3)' …子どもは実に好奇心が強い。

(4)' …すべての動物は、人間を含め、幼いうちは好奇心が強い。

 原文に近いのは (4)' かそれ以外か、改めて明らかになります。なぜそうなるのか、あたりまえと答える前に、今少し考えてみたいと思います。

 私が注目したいのは、原文にこの第1文が置かれたことの 修辞的意義 です。

「子どもは好奇心のかたまりだ」──自分がもしこの原文の筆者なら、いかなる場合にこのような一文を綴るか。──

それは、論理的見解を直接その一文で示したいという場合ではなく、何よりも、具体的に誰かある子どもの好奇心旺盛な姿の記憶が自分の頭の中に浮かんだような場合であろうと想像します。「あのときのあの子」の様子を見て微笑ましかったか感動したか、そのシーンが思い浮かび、「子どもは」「かたまりだ」という簡潔な状態(英語でいう第2文型)を綴ることになる。詳述せず短く言い切ることで、かえって、読者それぞれにとっての「あのときのあの子」の好奇心にあふれる姿を想起してもらえる、というわけです。──過去でなくても、「この子を今」見ていてそう思った、というのでもいいですね。あるいは、もともと筆者自身に想起はなく、読者に想起を促すためにこう書いたともとれます。── 「子どもは好奇心のかたまりだ、か。…そう、まさにかたまりだなぁ」という、筆者と読者の対話があるのです。「文章を読む」とはこういうことではないでしょうか。

 こう考えると、「子ども」とはやはり人間の子どもである可能性が高くなります。なぜなら、動物の子どもについての想起ならば、子猫なら子猫、子犬なら子犬と書くだろうからです。あるいは「ムササビの子どもを見たことがある」などの書き出しになるかと。そして、もしもこのような具体的記憶の想起を一文に表すことをせずに、第2文以降で語るような「人間と動物の違い」という内容を第1文から盛り込もうとするのなら、もはや「子どもは好奇心のかたまりだ」という表現は採らず、それこそまさに 直接 (4)' のように書くでしょう。

 と、説明するとどうしてもいささかくどくなりますが、われわれはまさに「言語で思考する」のですから、実際には、「子どもの姿の記憶の映像的想起」から「第1文のフレーズ」が出てくるプロセスは、「一瞬」「同時」といっていいでしょう。

 「恣意的な解釈を挟んではならない」と、すぐに返されそうです。しかし、原文自体が曖昧である限り、「意図する所を明確に」と判断し「適切に言い換える」ことも、恣意的にならざるを得ないのではないのでしょうか。次には「そこまで繊細な考察は要求されない」とも言われそうです。それはその通りでしょう。私も、上記の説明はわれながらいい線いくかな、と考える一方、大学入試英作文において、ここまでの深読みは不要だろうと確かに思います。でも、そもそもは、「解説的明解さの優位」を説く大矢の主張に疑問が生じたことが発端で、それがなければ、私もここまで考えることはなかったでしょう。あるいはこうも言えそうです。改めて深く考えるまでもなく普通に英訳すれば、簡単なうえ、図らずもその修辞的意義も保たれるのだから、けっきょくそうするのが最善ではないか、と。

 さて、「言葉の表面にこだわるのではなく、その意味する内容をイメージせよ」などともよく言われます。しかし、表面こそが重要であり、表面こそが内容を表す、ということがある。これは、文章とは「表現=表面に現れるもの」であるという意味においては、ごく当然の帰結でしょう。「子どもは好奇心のかたまりだ」は、その一例です。さらには、「探せば例外はある」という揚げ足取り的な次元ではなく、英作文の指導者が「文字面よりも内容のイメージを」とまさに注意を促すような英作文問題にこそ、そういう用例が多くあるのではなかろうか、というのが私の見立てです。そういう用例を多数収集できれば、「英語的発想を持て」「基本的な英文をともかく暗記せよ」「単語の置き換えだけでは×」…等々の、英語を教える側からの洪水のような脅迫的?言説に対し、一石を投じることができるのではないか、と夢想します。どなたか、この作業を買って出てくれる英語の達人はいらっしゃいませんか?(苦笑)

追記:誤解のないように書きますが、知る限りの大矢の参考書はどれもよくできていて、私のような英語の素人が見てもうまい英文だなと感心することも多く、説明の切れ味もいい。だからこそ、私は自分のかねてからの問題意識をこうして先鋭化し得たのだろうと思います。「批判は人を育てる」との言葉には、批判する側をも育てるという意味が、やはりあるのでしょう。それに、大矢に限らず、冒頭に訳例を拝借した著者たちの誰一人として、「英語を教える側からの言説」を説かない人はいないのです。