音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (14)

  作品のスタイルと演奏のスタイル (6)

  ──作品と表現の弁証法──

 いわゆるピリオド奏法、古楽器演奏、古楽器風スタイルが隆盛です。例えばベートーヴェンの音楽は確かに18世紀末から19世紀初めにかけて生まれました。当時、はたしてほんとうに、現在に古楽(風)として行われているスタイルのように演奏されていたのかどうか自体に疑問を投げかける論者もあるようですが、それは今は置くとしましょう。それでも、古楽流がまず正しく、20世紀半ばまでの主流だったいわゆる“往年の巨匠”たちのスタイルはその正統を歪めたものであったという筋は、やはりおかしいと思うのです。ピリオド奏法と言ったって、そのピリオド自体には決して戻ることはできません。それを行う時代は現代であり現在または近い未来のいつかの日時です。それだけでも、逆説的に、古楽スタイルこそが自己矛盾を孕んでいるとは言えませんでしょうか。つまり、正しくない。何も鬼の首を取ったつもりではなく、“往年の”スタイルへの批判を相対化したいだけです。正しさを持ってくることは、やめればいいのに、と思うわけです。

 では、何がよりどころとなるのか。ここで、よりどころなんてない、思うまま考えるままにパァーッとひらいていくものだ、と岡本太郎風に言ってしまってもいいかもしれませんが(笑)、今少し、この問題に寄り添う形で考えてみます。

 演奏者(指揮者)は、一つの作品を演奏するにあたっては、それを「未知の新曲」と仮想的にとらえて向き合えばよいのではないかと考えつきました。これは「現代の新作のようにとらえる」ということではなく、時代も作者も未知、目前のスコア=テクスト(の作曲者名などを除く音楽の内容を直に表す部分)以外には一切情報が無い、と仮定して始めるということです。そして、古今の音楽・作曲家に関する音楽史的・演奏史的・時代背景的な知識や歴史的認識については、こちらは白紙にはせず、そのまま自分の学び得た分だけ、その「未知の新曲」の演奏・表現に活かすようにする。

 例を挙げると──交響曲についてはハイドンからショスタコーヴィチ(もっと下ってもよく、単なる一例です)まで、一応の知見がある。しかし今度やることになったマーラーの第2については、「全く知らない、自分の中での新発見・発掘曲」と仮定して、これからする演奏が魅力的なものとなるよう、自分の知見を注いで取り組む──というわけです。実際には、例えば、それこそ仮に、ベートーヴェン交響曲について第2だけは全く知らなかった指揮者がいたとしても、「未知の新曲(実はベートーヴェンの第2)」のスコアを見て「これはおそらくベートーヴェンと同時代の作曲家、ひょっとするとベートーヴェンの作品か?…」という程度は察しがついて当然でしょう。演奏者(指揮者)は、演奏予定の当の作品については「未知」としながら、同時に、音楽全般に関する自分の知見や考察についてはそれらを総動員して作品に当たろう、ということです。

 このアプローチは「これはベートーヴェンなんだから…」という予断を持った取り組み方とは大きく異なります。あくまで「これはベートーヴェンではないかもしれない」のです。ベートーヴェン(と同時代)であると判断して「そのように(=どのようにか知りませんがともかく某かのように)」演奏することを決断したのは、あくまで指揮者自身です。つまり、時代考証や演奏表現については

すべて演奏者(指揮者)の責任

となります。「バロックだから」「モーツァルトだから」ということではなく、また逆に「バロックであっても」「モーツァルトであっても」という(アーノンクール的?)反骨的気負いも不要、結果的に例えば「ワーグナー風のハイドン」や「バロックのようなマーラー」も起こり得るし、もちろん「ベートーヴェンらしいベートーヴェン」も生まれ得るでしょう。しかしそれらは(ここが重要)、単にラディカルに「ワーグナー風のハイドン」を目指してハイドンをしたのでも「バロックのような」マーラーを目指したのでもなければ、コンサーバティブにオーソドックスに「ベートーヴェンはあくまでベートーヴェンらしく」を目指したのでもないわけです。

 以上が、「作品のスタイル=歴史的位置と演奏のスタイル=演奏者の“今行う”表現との“弁証法”」です。感動が、その止揚です。