音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (2)

──この記事は、その性質上、主題とした作品の“ネタばれ”を含みますので、予めご了承下さい。──

  科学と空想科学 (1)

 「特撮」批評を書いていて考えついたことの一つに、「科学的であること」と「空想科学的であること」(の違い・区別)の問題があります。約10年ほど前、ごく内輪の某メーリングリストに『ウルトラマンティガ』最終回について投稿し、そこでこの「科学─空想科学」の問題に言及しました。ごく一部の手直しを除いてほとんど当時の原文のままここに再発表したいと思います(以下の======で挟んだ部分)。

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 『ウルトラマンティガ』最終回(最終挿話)を見ました。前中後編の3回連続のストーリーで、なかなか見ごたえがありました。ダイゴとレナのシーンも多く長く、ダンとアンヌのそれよりつっこんだ形で描かれており、なかなかよろしい。イルマ(隊長)とレナの女性二人だけが先にダイゴ=ティガの正体に感づくという必然性もそれまでの挿話の中で周到に小出しにされており、「僕は一人で行きます」というダイゴを止めずに「必ず勝って」と送りだすイルマ、ティガが一度石像に戻って海に沈んだとき思わず「ダイゴ!」とみんなの前で叫ぶレナ、など、なかなか見せ場を作ります。他にも、単発映画的なプロットのしっかりしたドラマ作りが光っており、こういう部分は、いかに名作の誉れ高くとも“その日作り”的な感の否めない『ウルトラマン』『ウルトラセブン』にはあまり望めない、『ティガ』の長所といえます。 

 最終挿話に限らず、どの挿話もけっこうよく作られており、特撮の進歩も手伝って、『ティガ』は、『80』以来17年ぶりに満を持して送り込んだテレビシリーズとして、スタッフの意気込みがよく伝わってきます。『タロウ』等の第2期ウルトラシリーズよりずっと優れた作品といってよいでしょう。

 最終挿話の話に戻ります。以前の挿話でティガとは別の石像(=イーヴィルティガ)を自分の科学力で蘇らせ悪事を働いた人物=マサキケイゴを、囚人として生きていたという設定で再登場させ、石像に戻ってしまったティガを蘇らせるのに一役買わせようとするところなども、実にニクイ。そのマサキを少しでも速く基地に来させるために、やはり以前の挿話に登場した超能力者の力を借りる、という運びも周到ですね。マサキと隊員二人の協力で海底のティガのカラータイマーにねらいを定め光を当てようとするシーンも引き込まれます。これがうまくいって、ティガが生き返って…というのはオキマリの展開ですが、それまでを周到に見せてきていますから決して白けず、むしろ好ましいとさえいえます。安直に「典型を嫌う」ことなく「典型をどう味付け仕上げるか」に注力することは、一つの正道でしょう。

 ところが──

 この作戦は、海上の怪獣が暴れ出すことで狙いが外れてあっさり失敗するのです。その後どうなるか…。何と、

全世界の子どもたちの思いが光となってティガに集まる

のです?! ティガは蘇り、怪獣に技をあびせるたびに、ピンポンパンの会場のような白バックのセットでたくさんの子どもがエイとかヤーとか言ってティガと同じ動作をやるカットを交互に見せていくのです。僕はこれを目にして、あまりの失望感に画面に向かって「あーあ」と溜め息を連発してしまいました。そのうち子どもたちがそれぞれ口々に、自分がティガだ、と言い出し、果てはレナまで、私も光(=ティガ)になれる、などと言い出す始末。

 実際の幼い子どもたちは『ティガ』を見てもちろん「ティガになりたい」と思うでしょうが、それは『ティガ』の中でこういうふうなシーンを見せてほしいというのとは違うでしょう。むしろ正反対ではないか、と想像します。ティガが自分には届かない存在だからこそ、その正体のダイゴも自分よりは大きく高い存在だからこそ意味があるのではないでしょうか。こんなシーンは“子ども騙し”にさえならないということです。──いえ、あるいは子どもは喜んだのかもしれません。しかし、喜ばせればそれでいいのでしょうか。

 とどめは最後のダイゴとレナの会話のシーンです。レナの掌の上で、スパークレンス(ダイゴ─ティガの変身道具)は石に変わり、さらに光の砂となって消える。ダイゴが今後はもうウルトラマンにはなれないことを寂しがるレナに向かって、ダイゴは、人間は誰でも自分の力で光(=ウルトラマン)になれるんだ、と諭すのです。──

 人間はみんなウルトラマン? ダイゴとレナのせっかくの、ほんとうにせっかくの、ダンとアンヌがついに果たせなかった抱擁シーンもあるのに、その前後がこの展開では…。どうしてこうなるのでしょうか。あのまま素直にマサキとシンジョウとホリイの作戦が成功して…という展開ならオーソドックスに感動できたのに。《子どもの声と思いが光になる》とは、あまりにも唐突で“非空想科学的”です。超能力者の存在程度の“非科学性”は許せても(そもそもウルトラマンや怪獣の存在自体が非科学的ですが、ウルトラマンを批評するという場合にそれを否としないのは当然ですね)このような“非空想科学性”は許せません。子どもの希望の光とかいうものをテーマにしたいのはわかりますが、せっかく積み上げてきたストーリーをどうして壊すのでしょうか。それまでのGUTSその他の活躍は何だったのか、ということになります。

 せめて、マサキの光と子どもたちの光の合体ということにできなかったか。「オトナとコドモが協力し、みんなで力を合わせたから怪獣を倒すことができた。子どもの放った方の光は“想念がテレパシーとなってティガに通じた”ということの映像表現としてのもの。しかしティガを蘇らせるにはマサキの光だけでなく、子どもたちのその“不思議な力”が必要だった」という空想科学の“メタ”説明(説明がドラマ世界の外の映像表現に言及しているのでこう呼ぶべきでしょう)がまだしも成り立ちます。

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 「人間はみんなウルトラマンになれる」という主旨のダイゴの台詞に、当時はほとほとあきれはてたものでしたが、今考え直してみると、これは仏教的な考えを取り込んだものなのかもしれない、と思い当たりました。仏教では、人間は誰でも仏になれる=成仏できるというのが基本であり、ここが人間と神とをはっきり分けるキリスト教との違いですよね。しかし、この説明の通りだったとしても、「人間はみんなウルトラマンになれる」には、僕は共感しかねます。これはもちろん、僕が同一型(→注1)の『ウルトラセブン』贔屓であることと無関係ではないでしょう。

注1:「ひとりぼっちの宇宙人」序章を参照。