音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (8)

  音楽作品という多様体の表現論 (2)

 ノリントンマーラー第5のアダージェットを聴きました。確かに「ピュアな響き」ですね。途中でどうにも飽き足りなくなったのでワルター/ニューヨークフィルに切り替え。こちらは最後まで聴きました。次にアンサンブルフロイントの先々月の合宿での録音を取り出して聴いてみました。初見で合わせただけで、当然ハープも無く、人数も少なく、比べるのが愚かかのように思うのですが、しかし、「ピュアな響き」というのなら、(一部のピチカートを除き)擦弦のみの音で綴るこの形の方が、まさにピュアなのではないかとさえ言いたくなるほどです。僕自身が聴いても(聴くから?)先の2つよりもフロイントの方がよい場面・瞬間があります。もちろん手前味噌な感想であり、他人と共有できるとは思っていませんが、しかし、もしこれが初見ではなく何度か「練習」を積んだとすれば、そこそこ行けるのではないかと。

 ノリントンに戻って、これを書きながら再聴。今、第5楽章ですが、予想通りといいますか、フィナーレの方が面白く、聴く価値あり。冒頭クラリネットのおどけた動機が2度目に現れる手前でのテンポの変化など、似たような造型を僕もかねがね構想していたものです。全体に木管がよく聞こえ、室内楽的で、腫れぼったいマーラー交響曲に新たな光を当てています。いえ、僕にとっては新しいわけではなく、自分でも考えていたようなことで、そういうことが実際に成されている愉快さがある、ということです。アダージェット主題の再現部分でもテンポを落としていますね。あんまりマネをしないでほしいなあ(笑)。ノリントンにせよコープマンにせよ、どこか考えていることの一部に自分との類似を認めざるを得ません。頭のかたい聴き手が耳にすれば怒り出しかねないような“不真面目”な表現を躊躇なく実行する。それでも、彼ら同士も彼らと僕とも、相違点の方がたぶん大きい。「自分と似ているからよけいに鼻につく」というのではないつもりです。せっかくいい線行っているのに…という擁護的批判の立場とでもいいましょうか。どうしてこれらの表現をピリオド奏法に乗せてやるのか?という疑問がどうしても拭えません。…おぉっと、ライブだったのか。終わると拍手。期待したコーダは僕にとってはさほどでもなく、物足りません。

 けっきょく、演奏家側のスタイルが先行しているように聞こえ、聴き手としては作品に直に向き合うことができず、「ほーら、ヴィブラートが無い響きは美しいでしょ、木管が聞こえるとたのしいでしょ」というノリントンの声しか聞こえない感じなのです。作品を聴きたいのに、スタイルを聴かされる。「個性的過ぎるから作品よりも演奏者を感じさせてしまう」のでしょうか。違いますね。むしろ逆です。音楽が再現芸術である以上、作品の本質は演奏者の主観を通じてしか現れません。ノリントンは「解釈の余地はない」と言いました。彼が自分の演奏から主観的なものを斥けようとしているからこそ、作品は聴き手に深くは伝わらないままに終わるのではないでしょうか(→注)。

 演奏表現における客観主義の陥穽、これは、今や“流行り”のピリオド奏法の演奏家のみならず、古今変わらず続いてきた現象でありましょう。

注:ここでは、「そんなことを言っている輩のやることだから、それみろ、こんな風だ」という書き方になってしまいました。考えていることの善し悪し(自分との相違)と、演奏そのものの善し悪し(自分との比較・賛否)とは、区別して捉えるべき、という留保は、ここでも慎重に付加しておこうと思います。その上で、考えと演奏とのリンクについてメタ次元の考察を続けていく自由もまた、やはり確かにあるのでしょうし。