音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (6)

  暗譜と暗譜主義 (6)

  第2章

 先々月でしたか、全国学校音楽コンクールの特集番組の中で、ある合唱指導者が子どもたちの合唱を数分間指導するというコーナーがありました。曲目はV6の「WAになっておどろう」(長万部太郎作詞作曲)。その指導法についてもツッコミ所がいろいろあったのですが、ここでは暗譜─置譜に関連する部分に触れたいと思います。

 1回通した後、指導者が「じゃ、今度は楽譜を見てみようか」と言って、お、そうか、今のは暗譜だったなと気づきました。置譜(→注1)で演奏しながら、しばらくあれこれ細かい指示をした後、「じゃ、楽譜はしまって、もう一度最初から行ってみよう」と言って、2回目の通し。そして、指導者自身はずっと暗譜。

 暗譜至上主義がみごとに表れた風景ですね。細かい指示の一つは、「フレーズの出だしについて、最初とリフレインでは、微妙にリズムが違うので注意しよう」というものでした。何でも、拍頭からか16ビートのシンコペーションのヒッカケかの違いを意識せよとのこと。いえ、細かいのはいいんです。どんなに微細であっても指揮者が提示すれば意味のある表現の芽になる(はず)。が、そんなこと、最初から楽譜を見ていればわかります。「指導」というなら、むしろ「類似や異同について注意しながら楽譜を読み込む習慣をつけよ」「楽譜を見ながらであればいつもその通り正確に歌えるようにせよ」と指導すべきでしょう。

 また、私がいつも疑問に思うのは、この指導者に限りませんが、こういう、極めて具体的でミクロな読譜上の問題を、「イメージ」とか「感じ」とか「気持ち」とかの言葉でヴェールに包んで説明することです。何というか、あいまいなのです。シンコペーションシンコペーションであって、決して「軽い感じ」とかではない。音符の並びは、軽い重いの表現以前に作品として定められている。そしてその表現を定める重要な要素が、指揮・指揮者・指揮法でしょう。

 さて、他にもいくつか指示がありましたが、2回めの通しではまた楽譜を閉じてしまう。楽譜を見ながらであれば、せっかくもらった指示を確かめつつ歌えるはずなのに、指導者自らそれを放棄する。もったいない話です。例えば上記の指示など、初見ではその相違自体に気づかないで雰囲気だけで歌ってしまうということはありえます。だからこその確認でしょうし、読譜力が普通に身に付いていれば、一度確認すればそれ以降は、置譜であれば常に再現できるでしょう。しかし、それを「憶えた」ら、また暗譜で歌え、という。あるいは、こうも想像できます。「みんな、今日歌う曲についてはもちろん暗譜してきたよね」ということで暗譜で1回通し、「ほら、憶えたつもりでもあやふやな点があるでしょう。そういう細かいところもきちんと憶えないとだめだよ」と指示し、また暗譜…、といったところではないか、と。見ればできるし、見られる状態なのに、なぜ見るなと言うか。

われわれのやっていることは「芝居」ではなく「朗読」なのです(→注2)。舞台で演技する場合、台本は憶えないわけに行きませんが、朗読には記憶力とは違う、明らかに別種の能力が必要です。『坊ちゃん』をラジオで朗読する仕事をするアナウンサーや俳優は、『坊ちゃん』を暗記しなければいけないでしょうか。重要な場面・有名な箇所は憶えるほど読み込んでから臨む、ということはあるでしょう。しかし、暗唱はありえない。必ず本を目前に置き、それを読むでしょう。それが朗読です。そして、朗読ではむしろ、「初見(に近い状態)でも内容を同時把握しつつ豊かに表現していく力」の方が大事ではないでしょうか。さらには、何回めであっても暗記ではなく本を読むのであり「本を読みながら内容をその都度同時把握しつつ豊かに表現していく力」が朗読の力のはずです。soseki1-3ss.jpgsoseki1-2ss.jpg

 あるいは「声優の吹き替え」に喩える方が、より妥当かもしれません。原画面とシナリオの両方を前に、タイミングを見計らって、しかも台詞として芝居級の豊かな演技も必要、という声優の存在。それは、置譜で指揮者を相手にし、音符そのものはもちろん正確に再現しつつ、同時進行的に(事前の指示だけではなくその場の感興も含む)指揮者の要求を受けて豊かな表現力で返していく、という演奏者の在り方に近いものでしょう。

注1:合唱は両手が空いているので、楽譜は手で持つのが通例です。ここでもそうでしたが、「置譜」と呼ぶことにします。

注2:先日、アンサンブルフロイントのメンバーの“何ですのん”さんと“今週のフロイント”さん(笑)とで鼎談したとき、“何ですのん”さんも全く同じことを言っていました。「置譜による演奏=朗読」というメタファーをかねがね考えてはきましたが、このことについての意見の一致はこのとき初めて確認できたので、嬉しかったのでした。「類は友を呼ぶ」とも言えますが、普遍的な道筋でもあるのだろうと。