音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (5)

  暗譜と暗譜主義 (5)

  第2章

 ヴァイオリンの鈴木メソッドで有名な鈴木慎一も暗譜奨励ですね。

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楽譜は記憶するための参考品でしかない。

───(鈴木慎一 『愛に生きる』 講談社、1966年、64頁)

参考ということは、自分が主、参考物は従ということです。鈴木は、子どもが楽譜を短時間に憶えて弾くことに驚き喜びますが、その子どもたちはいったい何を憶えたというのでしょう。せいぜい、一通りの音の流れとそれに伴う表情(記号)のパターンを頭に入れたに過ぎません。第1章でも書きましたが、一つの音楽作品とはそのように易々と捉えきれるものなのでしょうか。

 誤解のないようにしてほしいのですが、鈴木メソッド自体については私は詳しく知らず、したがってその成果について批判できる立場にありません。また、鈴木メソッドで育った、優れたヴァイオリン奏者を身近に何人も知っていますし、すばらしいことだし羨ましい限りです。ただ少なくとも、楽譜を参考品にたとえて軽視し、記憶することを上位に置くその鈴木の考え(といううより感覚でしょうか)に限っては、どうしても承服し難いということです。

 鈴木はまた「すべての子どもが日本語をしゃべっている」と驚いて見せます。日本語習得と同様の環境をヴァイオリン習得について整えてやれば、ヴァイオリンも日本語と同様にすべての子どもに習得できる、ということですね。それはわかります。私はそれを「理想論だ」と感情的に批難するつもりはありません。詳細の検討を別とすれば、そのような発想自体はむしろ自然ともいえます。

 しかし、ほんとうに問題なのは《どのような日本語をどのようにしゃべるか》、さらには《どんな内容の日本語をしゃべるか》ということのはずです。だからこそ、子どもの日本語習得に関わった(親や教師やその他身近な者をはじめとする)大人たちは、子どもたちに日本語を習得させたというだけでは何も特別な存在ではありえないわけです。下品な大人が低俗な言葉を教えても「習得」には違いない(→注)。平凡で退屈な語りしかできなくとも「しゃべれる」ことに変わりはない。ここでも一つ譲歩が必要なのは、内容以前に「母語を話せる」ということ自体が一つの貴い《育ち》の成果であること、そこをとらえた位相もまた大切であることには異論はないという点です。が、それは“政治・社会の位相”です。習得することそれ自体ではなく、その中身が問題となること、習得したそれで何をどう送受信できるか、どのような内容のコミュニケーションが可能かを問題にすること、それが“芸術・文化の位相”というものでしょう。

 また、鈴木の言う日本語の習得とは、話すことと聴くことだけで、読み書きについては意識に入っていないようです。音楽における《読み書き》とは、まさに《読譜と採譜》ではありませんか。またまた譲歩ですが、言語とはまず口語であること、その記録として文語(書き言葉)が発達したことは言うまでもありません。しかし、母語の習得とはこれら4つの総合力の習得を意味するはずです。そして、《読む》とはまさに《暗唱する》とは違うのであり、また、《書く》とは、暗記した例文を書き出すことではなく、自分で自分の文(文章)を書き上げることでしょう。

注:下品や低俗というものの尺度も人によって異なることはもちろんです。質・量の差異があることを確認したいだけです。