音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (4)

 暗譜と暗譜主義(4)

──第2章──

 ピアノの独習を始めて1年半ほどになります。といっても、自宅で一人、気が向いた時に我流で2、30分弾いてみるだけですが。幼少期にY音楽教室に3年通うも、さあオルガンからピアノに移行という時にやめて、それ以来30数年ぶりだったので、全くの初心者・入門者に等しかったわけです。それこそ「左手と右手が別々になど動くはずもない」と思っていました。それが何とかソナチネアルバムの第1巻の、ほんのいくつかではあれ、どうにか弾けるようになってきました。なかなかいけるじゃないか、と自分をほめているところです。

 さて、この私が、例えばクーラウのソナチネは、暗譜なのです(笑)。楽譜を見ながら弾くなんて、とてもできません。暗譜主義の人々の気持ちも少しわかるようになりました?──

 一つには、ピアノが鍵盤楽器であること。やはり、鍵盤を見ずに正確に弾くことは技術としてかなり高度です。今、この文章をモニタだけを見て入力できるほどには、私はキーボードというものに慣れていますが、ピアノについて同様にできるようになるのはまだまだ先のことでしょう。

 「顧問」をしている吹奏楽部の部員たちの間で一時期、パート譜を暗譜することが手放しでいいことであるかのような誤った考えが蔓延しつつあったとき(→注)、さすがにこれには歯止めをかけなくては、と思い、「音楽は楽譜の中にある」「まず楽譜、次に指揮を見よ」と、珍しく指導者的立場を発動させたことがありました。そのとき、鍵盤楽器の特殊性については、うっかりフォローし忘れていたのです。するとパーカッション担当のまじめな下級生が、「鍵盤を見ずに楽譜と指揮を見て演奏するのはすごく難しかったが、がんばって練習しようと思う」と感想を書いて返してきて、まいったなあ、わるかったなあ、と…。

 ピアノの場合も、あるレベルに達すれば、「置譜で弾く」ことが可能になるのでしょう。プロのピアニストたちは、演奏会・リサイタルの本番は暗譜で臨むことが多くとも、まさか「置譜では弾けない」ということはありえませんよね。ともかく、鍵盤楽器の場合は、「暗譜より置譜の方が難しい」という、一見“ねじれた”現象が起きる。そういうねじれが起きる程度には十分、他の管弦楽器などの場合と比べて「自分の指先を見ないで演奏する」ということが技術的に難しい。

 今、“ねじれ”と書きましたが、実はねじれてはいないのではないか、というのが今回の主旨です。つまり、暗譜よりも置譜の方が、総合的に見て高度な技なのではないか、と。少し言葉が足りないので付け加えると、

 「初見の曲、または少なくとも憶えてはいない曲を、置譜で演奏する・できる」ことの方が「曲を憶え、それを暗譜で演奏する・できる」ことよりも、高度なのではないか

ということです。

注:「おまえのような考えの人間が顧問をしていて、何でまたそんなことになるのだ」と訝しがられるかもしれません。が、どんな現場にも何かと事情というものはあるものでして…。煩雑になるので、今のところ言明は控えることに致します。いずれ「わかる人、わかる時、わかる可能性」の方でこの辺りのことについて書くことがあるかもしれません。