音楽の編み物

シューチョのブログ

アンドレアス・シュタイアーのモーツァルト

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (44) 2009年11月

──本記事は、シュタイアーのモーツァルトのCDについて、ネタバレ的内容を含みます。本盤はすでに最新の新譜ではないとは思いますが、一応お断りしておきます。──

 


アンドレアス・シュタイアーのモーツァルト、特にK.331のフィナーレ(トルコ行進曲)について、噂には聞いていましたが、ようやく聴く機会を得、居合わせたみなさんと愉快な驚きを共有できました。ただ、このようなラディカルな表現のものを耳にするたびに僕が思うことは、別に悔し紛れでもなくほんとうのところ、びっくりしたことはあまりなくて、「おーぉ、そうか。やっぱりやってもいいのか」とか「あ、これ自分がやろうと思ってたのに、先にやられた/マネすんなヨ」とかが多いのです(笑)。どんなに過激なことでも「プロ」の「保証」がついたらしめたものです──いえ、ほんとうはそういう「プロ」の「保証」があろうがなかろうが、信ずるようにやればいいわけです。それはもちろん承知の上での遊びの表現です。以下も同様。──

2点について書きます。まずは、冒頭主題。これほどの有名曲になると、楽譜よりも耳から入る方が先の人は多いでしょうし、僕も例外ではありませんでした。で、楽譜を見て「おや」と思うのです。当然16分音符4つと思っていたのに、違うわけです。シュタイアーはリピート時に、この装飾音符を“装飾音に聞こえる”ように演奏しています。これは僕が楽譜を初めて目にしたときから考えてついていた表現ですが、実際にやっているのは知るかぎりシュタイアーだけです。今、「僕が」と書きましたが、別に誰でも考えつくことですよね。でも、やらない。常識か時代考証か伝統か、そういうものが眼の前の楽譜を「見えるまま」に演奏することを遮る。この「装飾表現」を、これぞ直観的表現と大上段にいうもよし、「学校の音楽で習った通りやってみました」と、かえって無知ぶって澄まし顔にするもよし(笑、シュタイアーが2種類とも演奏したのは、まさか俺は無知でやっているのではないぞと示すため?!)、ともかく「そうそう。やっとやる人が出てきたか」と思ったのでした。──もちろん、この件について詳述しようと思えば、「見えるまま」とだけ言うのはいささか能天気であることは重々承知しているつもりで、装飾音符という記譜法について、それこそ、伝統・時代考証・常識から演奏史に至るまで、まだまだ言及すべきことはあるでしょうが、今は置きます──。

もう1点は、後半部分で、カデンツァ風の創作部分を挟む所。これにはやられましたねえ。僕はこれまでソナタ形式の曲の演奏においては「尺を変える」つまり「無い音符を“継ぎ足す”、すなわち、足したことで原曲に無い時間が付加される」ことだけは辛抱(笑)してきました。「無い音符を“乗っける”こと(尺(小節数など)は不変)」や、別の意味の「尺変え(=実はテンポの緩急だが、そうは聞こえないほどの激変)」はいくらでもやりますが。で、「何だ、尺も変えていいのか」と。これで俄然やりやすくなりましたね。僕も、曲によっては湧き出るままに書き留めたカデンツァ的ネタなんかもありまして、その類いのものは「さすがにちょっとなあ」と思って自ら封印していましたが、再度あれこれ思い起こしているところです。

思い出しついでに、“別の意味の「尺変え」”の有名な例では、シューリヒトのシューベルト「グレート」第1楽章終結部分でしょうか。これのことだったかどうか、宇野先生はどこかで「突然倍になる(テンポが2倍や2分の1に急変する)というのは、いくら何でもおかしい」という主旨のことを書かれていたと思います。が、「え?そうかなあ。情緒的な緩急よりも、倍にするとかの方が造型的・論理的で、やる意味があるのでは」とか返したくなったことがあります。