音楽の編み物

シューチョのブログ

『時をかける少女』最終回─《跳ねる未羽》の挿話─

──この記事は、日本テレビ系ドラマ『時をかける少女』のネタバレを含みます。ご了承下さい。

時をかける少女』、黒島結菜主役ということで、これは視ておかなければと思い初回から押さえておりましたが、今日が最終回、いやあ、すばらしい。『ウルトラセブン』級の“フィクションの自己活性化”がなされていて驚きました(さすがに褒め過ぎ?でもさめないうちに書いてしまっておきます)。実際に、両者の最終回は、意外なほど類似していました。

時をかける少女』は大林宣彦原田知世/映画版しか知らずにいたので、今回のTV版視聴に当たり原作を初めて読みました。何というか、予想以上に淡白な内容。筒井康隆の学習雑誌への連載、というシチュエーションが、すぐれたプロットでありながら浅めの展開で終わるという、このような原作となったのでしょう。そして、プロットの面白さに比してそれを描ききっていないように思える意外なこの淡白さが、逆に読み手の想像力を大いにかき立てることになり、豊富な二次作品に恵まれることになったのだろう、と改めて納得。

周知の通り、大林─原田映画版では、3人の主要登場人物に、必然的と思える、いわゆる三角関係を持ち込みます。今回のTV版はそれを踏襲しながらも、最終回で、「時をかける」主人公=未羽と未来人=翔平(ケン・ソゴル)の「恋の行方」はどういう帰結に向かうか、その帰結をどういうあり方/方法で迎えるか、という点において、すなわち、「帰らなければならない」翔平が最後にどうなるのか、未羽はそこにどう関わるのか、その物語展開の最終段階において、最も本質的な回答の一つを提示し得たと思います。私がかねてから重視する概念である“フィクションの自己活性化”が十分になされていて、すがすがしい感動をおぼえました。このアイデアが完全なオリジナルなのかどうか知りませんが、現時点でそこには未知である私としては、素直に称賛しておきます。端的にいえば、

アンヌはダンに「行かないで」と叫ぶしか術がなかったが、 未羽は翔平に「帰って」と願い、そうなるよう自分から行動し局面を打開していった(そうできるように場面が設定・展開された)

ということになります。つまり、ふと気づくのです。アンヌもダンに死んでほしいはずはなく、ダンに帰ってほしいという思いも芽生えていた(芽生えてくる)はずだったのだと。『セブン』ではそこの思いの襞が描かれ得なかったのですが、今回のTV版『時かけ』では、両方を描ききっていました。

また、明確には描かれませんでしたが、翔平が去った後の理科室や階段の道のシーンでの未羽の台詞や様子などから、未羽は翔平についての記憶を保っていると受け取るのが素直な見方ではないでしょうか。だとすれば、私がかねてから指摘してきた『ウルトラマン』における「ハヤタの悲劇」も、起こらずに済んだことになりますね。あっぱれです。

ただ、以上のように翔平・未羽の別れに焦点を当てた分、もう一人の男子・吾朗の存在が最後に宙に浮いた感は否めません。そこは残念です。次なる『時かけ』がもしも作られるなら、そこの「解決」にも期待したいところ。このような「二次作品による進化・深化」はいつでも歓迎したいですね。

最後にエンディング副主題歌のタイトル「恋を知らない君へ」について。これも、その意味と意義が、しかも最終回に来て二重の意味が新たに与えられた上で、きちんとドラマにフィードバックされています。これも、素朴な“フィクション自己活性化”の一例。「史上最大の侵略」のラスト直前に主題歌の2番が流れる『ウルトラセブン』や、「力で勝つだけじゃ何かが足りない」という主題歌の歌詞ほぼそのままの台詞が最終回に主人公ムサシに与えられる『ウルトラマンコスモス』を想起させます。

おまけ1:本稿の投稿直前にみかけましたが、冒頭のAKB48の「生主題歌」の演出について、不要と嘆く意見があるようです。確かに違和感なしとはいえないのでしょう。が、これとても、純粋に作品世界内をみるだけなら場違いで不似合いともいえる、シリーズ中最もジュブナイル然とした主題歌(特に歌詞)をもつ『ウルトラセブン』と重なりますね。それと同様、今回の「時をかける少女」は、そこでの黒島結菜の魅力は、そのくらいのことで揺らぐような“ガラスの”作品世界であるとは、私は思いません。

おまけ2:やっぱり、芳山家の母か親戚かに、長谷川真弓をキャスティングしてほしかったなあ(笑)。実は、…大林─原田映画版のラストの踏襲で、月日が経った後の未羽役に長谷川真弓…、という夢想をしておったのではありますが(笑)。改めて、そのような「ファンの身勝手な想像」を裏切られても十分に許容できるほど、今日の最終回はすぐれた出来映えだったと思います。二人の共演は、別作品を待つことにしましょう。