音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (27)

 先月に観た映画『MW(ムウ)』について。

──本記事はその性質上、“ネタばれ”的な内容を含みますのでご了承下さい。──

沢木刑事役の石橋凌の演技・存在感がすばらしく、実に見応えがありました。007シリーズよろしき冒頭の追跡シーンからたいへん引き込まれ、「本気走り」に圧倒されましたし、射撃時の鋭い眼や込み上げる怒りの表情などにもただならぬ気迫を感じました。沢木の配役は石橋でしかありえず、逆に石橋の演技を見せたいために沢木という人物が設定されたのかとも思えるほどでした。

しかしその他の部分・要素については、僕には不満な点も目立ちました。

まず、『MW(ムウ)』の映画化というなら、性愛の描写・表現についてもう少し踏み込んで挑むべきだったのでは、というのが一つ。

もう一つ、ラストシーン(詳しくは、結城の乗った軍用機の爆発場面から沢木と結城の携帯電話のやりとりの場面までの流れ)が腑に落ちません。主人公・結城の生存可能性についての説明が、無さ過ぎます。確かに、そこまでのシーンにおいてけっしてはっきりとは死を描写してはいません。しかし、そのことをもって、「死んだとは一言も言ってないよ」というふうに、彼が生きていたことにしてもいい理由・言い訳にするとすれば、それはずるい。「筋書き」として甘過ぎる、どころか、「筋が書かれていない」わけです。彼の乗った軍用機の爆発は描写されています。では彼はその後なぜ生きていたのでしょう。事前に原作を復習していた僕は、ここまでを観て、「あぁ、映画では“悪は滅びる”式の妥協的エンディングに薄めたのか。残念だが、それもまたよしかも」と思いました(原作については後述します)。こういう、いったん「死んだのか?」と思わせる描写がなされ、その後、「実は生きていた」という描写が示される、という場合、後者の描写が示された瞬間に(あるいは少し後で振り返り)、例えば、……「あ、そうか!あのときのあのシーンが生存可能性の描写だったのか。なるほど、これは一本とられた」と、膝を叩いて思い当たるシーンがある……などのようでなければいけないでしょう。繰り返し見て確認したわけではありませんが、さしあたり今は、そのような場面は無かったという記憶をもとに書いています。パラシュート?ダメですね。それについてはわざわざ「リチャーズが脱出した」という説明の台詞を入れてしまっている。「実は脱出したのはリチャーズではなく結城だった」などであるなら、物語内の時刻・時期からみてラストシーンよりもはるかに前の時点で、関係者はリチャーズのことを死亡または行方不明として把握していることになるはずで、ならば結城の生存可能性についてもとっくに関係者の意識に行き渡っているはずです。「事件は終わって時が過ぎた…」的な平静に戻ったかのようなナレーション、しかも「結城の生死は依然として不明のままだが…」などの内容の盛り込まれないナレーションを、確か沢木自身(のモノローグ)にさせた上で、結城の生存という戦慄のラストに持っていく、という展開には、大きな矛盾があります(もちろん、この場合、途中で「生死不明」というナレーションを入れてしまえば興ざめなのであり、だから不出来だということでもあります)。これでは、先述の妥協的エンディングにした方がまだましだ…と、僕などは、そこまで思ってしまいます。その方が、陰の部分が少なくなって正義の存在という位置づけが高くなった賀来のキャラクターなんかも、かえって活きてくるのではないか、とも。

原作ではさすがに、結城が生きていることの「筋書き」が一点の曇りもなく描かれている。特にその最後の仕上げの、結城の生存をみごとに表した「引きつった笑み」の一コマは、これこそ「戦慄のラストシーン」と呼ぶにふさわしい。確かにそこに至るまでの「ムウの袋の詳細を検事がスケッチできた」「瓜二つの兄弟が乗り込む」などの設定は、作者自身が「漫画だから」と作品内で茶化している通り、いささか無理がある。しかし、その無理をなぜしたかの答えがしっかりとある。こういうのをストーリーというのでしょう。漫画ではない映画において、“自己内茶化し”が通らないことなどは当然でしょうが、ならばこそそこをクリアして映画独自の揺るがぬストーリーを提示してほしかったと思います。