音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (14)

 TV番組の「学校へ行こうMAX」で,Mr.マリックが出身中学に赴き、体育館で全校生徒および全先生にスプーンを渡し、全員一斉にスプーン曲げをさせる、というパフォーマンスをやっていました。その実演の後のメッセージは次のようなものでした。

(スプーンが曲がった曲がらなかったということより)大事な事は…、今、真剣にやりましたね?「こんなことをやって何になるの?」というようなことを真剣にやりました。そして、楽しくやりましたね?やはりね、何事も真剣にやるんです。しかも楽しんでやる。この2つが重なったときに実は何か、毎日が楽しい日がやってくると思います。(やる前から)「こんな事…」と思わないで、何でも好奇心を持ってやって下さい。

マリックさん、なかなかいいことを言っています。惜しいのは「楽しんでやる」という所。

ほんとうに楽しいことを、真剣にやる

と言えばさらに誤解が無かった。マリックさんの言の主旨は、

こんなことをやって何になる?というような事も真剣にやれるし、えてして楽しい/楽しいことは真剣にやれる/毎日が楽しい日となるために、自分にとってその2つが重なるような何かが見つかるといいよね/そのためには ひとまず 何事にも好奇心を持ってみるといいよ

ということでしょう。ところが、「楽しい」を「楽しく」として「やる」の連用修飾にして(あるいは「楽しむ」と動詞化して)しまうと、その「やる」こと自体(「やる」の目的語)は何か/どんなことなのか、そのこと自体が自分にとって楽しいことかどうか、という最も大事な点が抜け落ちるのです。マリックさんの実際の発言も「楽しんでやる」という連用修飾型です。また「ひとまず」がないため、「何事も真剣に楽しくやれ」「嫌いな勉強にも好奇心を持って臨め」という教訓として聞くこともできます。

最近、スポーツ選手もインタビューで「あとは競技すること自体を楽しめればいい」などとよく言いますが、僕は聞く度に舌打ちしています。苦しく辛い練習を経(ることがもてはやされ)ておきながら、そのように言う(のをよしとする)のは、完全なダブルスタンダードです。多くは、実は楽しくないからこそそう強調するのしょう。よく知らないのですが、世界陸上の不振も、相対的な順位はともかく各選手がその自己ベストからさえ遠い結果だったのでしょうか。だとすれば残念ながら「そりゃあそうもなるでしょう」と返すよりありません。「サムライ魂」とか「国の威信」とかを一方で吹聴しながら「楽しめる」わけがない。

スポーツ選手の不振の例は、本人にとって元来楽しいことのはずなのに、だからこそ専門の道へ進み得たはずなのに、楽しくできなくなり、だから「楽しんでやる」とわざわざ再宣言しないといけなくなる、という最も悲しい例。

「勉強も楽しんでやろう」というのは、当人にとって勉強が楽しくない時や場合に、「楽しくやりましょうね」とだましこむ例。人間には好奇心が備わり、「勉強が楽しい」ということは十分ありえます。それを楽しくなくしているのがまさに学校的価値観であり、だからこそ「楽しく勉強しよう」という言説も学校の中で言われるのです。楽しくなくさせておきながら─自律的な喜びを他律的な労苦へと貶めておきながら、楽しめなければならぬ─喜びを見出せ、と言う。つまりダブルスタンダードなのです。

 記憶を辿れば、一昔前は「楽しいだけではない」「楽しんでばかりではいけない」という言い方が主だったように思います。その方が学校的価値観がストレートに出ていて、批判・反論も容易であったのに、いつからか「楽しまなければならない」にシフトしました。こうなると、「楽しいことをやるべきだ/やればよい」という岡本太郎的・元永定正的なユニークで斬新な発想・主張さえもうっかり呑み込まれかねません。巧妙です。

 マリックさんの発言に戻りましょう。彼の真意は十分伝わりましたし、彼自身が学校的価値観をただなぞっただけだとは僕は決して考えていません。ところがそれは、上述したようにありきたりな教訓としてもとれてしまう。「勉強やクラブ活動の辛い練習も、楽しみながらできるようになろう」という所へ、(うっかりすると)吸収されてしまう。ひょっとするとマリックさん自身も、発言しながら、学校空間でものを言っているという意識が上り、サービス精神で、学校的価値観に沿うように「何事にも好奇心を」と教訓風にまとめてしまったのかもしれません。──たとえそうだとしても、彼の本意はそこにはないと僕は読み取りましたし、責めるよりは擁護したいと思います。── もちろん、それこそ「学校へ行こう」という番組なんだからそうなるわさ、ということは百も承知の上で、ここではそれでもあえて指摘しておきたかったのでした。数年前の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の吹奏楽特集を視て、とてもじゃないが笑ってこらえることなどできなかったのと同じです。そういう、僕の、“バラエティ番組ごとき”にさえも一種生真面目な姿勢を以て向き合うという面をも、ここでは示しておきます。