音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 2007 (2)

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《美は教育はしません。》

───シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫、1996年、296頁)

 教育とは一つの働きかけです。それに対して、美は、美からこちらには働きかけず、それを美と捉え得る者とのみつながりを持ち、そうでない者は突き放すのです。

 学校現場でもNHKの教育番組などでも、「私たちは××の活動を通じて、××の楽しさを子どもたちに伝えていきたい」などというフレーズがあふれています。耳にする度に萎えます。そうやって伝えなければ伝わらないような楽しさは、ほんとうの楽しさとは言えない、と僕は考えるのですが。学校現場などの「教育的活動」の中には確かに、「根っこの所では別にそんなに楽しくもない」という類いの活動もあって、だからこそこういうフレーズが生まれるのでしょう。ほんとうに楽しいことには、自然と人(子ども)が寄って来るのではないでしょうか。──そうそううまくは行かない面があることは承知しています。本来の在り方・理想の確認のつもりです。──

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《美的な完全さについての「一般的観念」はありません。バッハのフーガを聞くとき、完全なのはそのフーガ自体なのです。》

───(前掲書、296頁)

 音楽は、「私たちの活動」など通じなくても、初めから楽しいもののはずです。「音楽の楽しさ」という「一般的観念」は無く、バッハのフーガ自体の楽しさがあるのみです。吹奏楽部でホルスト組曲をやるとき、ただホルストのすばらしい音楽を享受したいからやるのであり、「簡単なようで実は難しいレパートリーもこなしていけるようなハイレベルのバンドを目指す」のではありません(ホルストセントポール女学校の自分の生徒たちのために、つまり教育現場でこれを書いたことは、今の主張と矛盾しないどころか、肯定的につながると考えますが、今は詳述しません)。

 芸術音楽を何か崇高で特別なものとして見よと言いたいのではありません。逆です。単なるモーツァルトベートーヴェンの作品それ自体に、外から他のお題目を掲げることなく、たいそうなことではなく向き合うということです。