音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (10)

   2003年

 社会制度上の構成単位を家族から個人へと移行させる「シングル単位論」(→注1)を独自に提唱する知人の学者・伊田広行さんは、最近の新書版の著書の中で親子(大人と子ども)の関係についても触れ、次のように述べています。

───

[……]親はほかの子と比較したり、結果だけで見ることをやめなくてはならない。[……]「失敗はまったく悪くないこと」を伝え、プロセス自体の質を見て積極的にその子自身を「承認」してあげること、あなたが存在するだけですばらしいこと、[……]を伝えることが必要だろう。つまり、子どもを〈たましい〉のかたまりと見て接し、大人(親や先生)が「力をもつ者にならなければいいのである。

───(伊田広行 『シングル化する日本』 洋泉社、2003年、179頁)(著者によって傍点が付された部分を太字で示した。)

 吹奏楽(に限らないのでしょうが)コンクールというのは「ほか」「と比較」し、「結果だけで見」、「失敗は」「悪」いことであると繰り返し伝える(伝わってしまう)場となりえます。春の合宿で一人の部員と語り合う機会に恵まれ、僕の「自分らが金賞で『やったー』と喜ぶのは、つきつめると『あそこが銅賞でよかったー』というのと一緒だろう」(→注2)という説明に、少し間を置いて「あぁ!そうなりますねえ…」と納得してくれたようです。何かにつけて優劣の差というものは生じるでしょう。しかし、優れた何かを(互いに)素直に学び(合い)習い(合い)たいと願うことと、自分と他人とが比べられることによって優越感を欲したり劣等感を抱きそれを嫌悪したりすることとは、まったく別の事柄のはずです。

 もちろん、本来、(音楽演奏の)芸術では「結果」こそが重要であり、百の努力よりも天才の瞬間的即興が勝ることも当然あり得、「プロセス自体の質」に感動してもらえるような甘ったれた世界では決してありません。しかし、優劣を客観的に比較して単一の序列が付けられるような単純なものではもっとない。それに、「結果」とは、真剣に向き合った演じ手と聴き手とが感動を分かち合えたかどうかが問われるのであって、「優秀な成績を修める」ことではありません。この点、「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」(SMAP槙原敬之世界に一つだけの花』の1節)と、メジャーなポップス音楽の中でもこのような詞が歌われるようになったのは、ひとまずは喜んでもよいことだろうと思います。

 さて、指揮者とは同時に聴き手でもあり、合奏の場で「吹けて(叩けて)いない」「合っていない」「練習が足りない」と、否定的な眼で接していくと、不思議なことに出てくる音がだんだんよけいに悪くなってしまいます。これは他人への批判だけではなく、実際僕がそのように関わってきてしまった時間も決してゼロではないという、自戒と反省を込めた告白のつもりです。楽器を持って集まったこと、真摯な眼差しでこちらを向いていること、ただそれだけでいかに貴いことであるか。そしてそのようにしている彼女ら彼らがまさに「存在するだけですばらしい」。そうして、「〈たましい〉のかたまり」が集まって奏でる音楽の、全体にも細部にも散りばめられているはずの、肯定すべき素敵な、全員の、一人一人の、一つの、様々のエッセンスをもれなく読み取りあるいは引き出したくて、僕は微力ながらも耳を傾け身体を駆使することになります。

注1:『シングル単位の恋愛・家族論』(世界思想社、1998年)、『続・はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006年)など。

注2:金と銅=1位と3位…?と思われるとここの主旨が捉えられなくなってしまいますので説明が必要でしょう。吹奏楽コンクールでは、各カテゴリー(小・中・高・大・一般)の中での全出場団体=全被審査団体に金銀銅の3種の賞のどれかが賞与されます。すなわち、銅賞というのは「第3位相当」では全くなく、参加賞同然の「要努力」の評価として認識されるような賞なのです─もちろん、銅賞=第3位相当ならばよいなどと言いたいのでもありませんが─。つまり本文では、「『あそこが銅賞でよかったー』というのと一緒」という気持ちは「他を蹴落とせたことを喜ぶ」気持ちであるということ、その問題点を指摘しているわけです。