音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (8)

   2001年

 毎年僕はこの原稿を、本文にタイトルと名前だけを添えて渡すのですが、できあがったパンフレットにはいつも「吹奏楽部顧問」という肩書きが付いてきます。そうに違いないのでしょうが、どうしても自分の名前に冠されるには不釣り合いに思えてなりません。顧問、教師、指導者、指揮者、いずれも「人々の前から上からものを言う者」、略するなら「前に立つ側の者」です。だから書きたくないのですが、その中では吹奏楽部と僕との関係をみたとき、素朴な「指揮者」が適当ではないかと。今度は自分で書いたから変更されないと思いますが…。

 僕が吹奏楽部の彼女ら彼らと一緒に練習するとき、極力しないことが2つあります。「怒る」ことと「直す」ことです。しないようにしているというより、すっかりスタイルになりました。2つに共通することは、それがダメ出しから始まるということです。「音程が合わない」「指が回らない」「高音が出ない」「テンポが定まらない」「リズムが不正確」そして「心が込もっていない」…などなど、すべて「否定」です。そしてそのダメを知らせるだけの行為が、「怒る」という行為です。

 例えば音楽の3要素について言えば、特にリズムと和声については、ちょっと音楽を知っていれば誰にでも正確・不正確を指摘できます。わざわざ「指導者」が前で拍子を取りながら、演奏させ、させておきながら途中で止め、偉そうに指摘する意味はほとんどありません。「どうやら間違い自体に気付いていない」というとき以外はそういう指摘は無用ですし、そういうときは逆に、怒っても仕方がありません。

 「旋律」だけは少し事情が違います。我が心の師ブルーノ・ワルターは、リハーサルでの演奏中に“Sing!”“Sing out!”を連発したことで有名ですが、このモーツァルト演奏の大家の口をついて思わず出てくる“Sing!”と、“ダメ出し”のために演奏を中止させ「そこ、クラリネットが全然歌えてない」と否定的に指摘するのとでは、まさに月とスッポンの違いがあります。「旋律を歌う」ことが必要なのは、誰よりもまず「前に立つ側」の方であり、そこをしっかりと表現しなければなりません。その表現のフィードバックが演奏となって返ってくるのです。それは何も「巧みな指揮をせよ」ということばかりではなく、言葉でイメージを伝えてもいいし、本当に歌ってみてから「…こんなふうに」と促してもいいでしょう。──ワルターの“Sing!”は、そういう説明過程さえも一足飛びにして、心の芯から出たままの叫びを直に奏者に伝えたものと言えます。──そうであるのに、奏者の方に「歌えてない」と「怒る」のは本末転倒であり、まさに「指導者」自身が「歌えてない」ことの証明です。

 「怒る」に対して「直す」というのは、知らせるだけでなく「修正」まで引き受ける行為で、これは、自分が音楽に通じているだけではできません。どうすれば「直る」か具体的に知っていて、かつ効果の出るようにそれを伝えなくてはなりません。似たことは僕も行います。が、「直す」ために「前に立って」いるのではありません。「直す」という概念を軸として据えてしまうと、マイナスが無くなりはしても、プラスが増えることはありません。つまり音楽として芸術として全く意味のない「減点無し」の演奏世界が築かれるのです。

 例えば、音程が合ってうまく「ハモった」ときの快い感覚は初心者が最初に覚える“合奏の喜び”の一つです。しかし、いったんそれを味わってからまた「合っていない」状態に引き戻されたときに、「これではアカン」と気付いてしまった分、何も分からなかった頃よりも否定的に考えるようになって、“ダメ出し指導者”の小型に育ってしまう、という危険があります。悔しい皮肉ですが、当然ながら、相対的に「うまい子」「できる子」の方がこの罠にはまりやすい。この次元をも乗り越え、「音楽を演奏するたのしさを自分の中に大事に持ち続けつつ大人になっていく」こと。これが、本当になかなか難しい。芸術を営む深さへと向かうか、感覚の音楽に留まったままになるかの、分かれ目です。

 学校的価値観からすれば、「怒って、直して、それからより高い所を目指せばよい」となるのでしょう。ところが、否定的な眼差しで接すると、いい音も悪い音に聞こえてしまうのです。音楽とは、「たのしい」が本質の一つのはずで、これをいったん脇に置くということはできないはずなのです。繊細でない浅薄な価値観がこのような“段階的克服”の発想を生み出します。

 しかし、僕も確信に満ちているのではなく、「つまらないことでふざけるばかりの」「面白くもないことにヘラヘラ半端に笑う」人たちを見聞きし、少し考え込むこともあります。「本当にたのしいこと」とはどういうものであるかを知らないまま、「たのしいこと」とは「ヘラヘラとしたおふざけ」のことである、という誤解がよもや蔓延しているのではないか…と。彼女ら彼らと練習していて、そういう不安がないわけではありません。しかし、そこでいったん「疑い」の方へ身を振ってしまうと、もう、彼女ら彼らがいかにいい音を出していても、それを聴き取れなくなってしまうのです。かといって、「この俺が教えているんだからそんなことはないに決まっている」という信じ込みも、たいへんに危うい。「わかっているんだろう」「わかっている人もいる」「わかっている時もある」「わかる可能性を秘めている」という、希望と期待を持って向き合いたいと考えます。