音楽の編み物

シューチョのブログ

三連連唱の調べ[第3回]

短調編 (1) 津軽海峡・冬景色


では、いよいよ三連連唱歌の紹介と解説に移ります。今回からしばらくは「短調編」をお届けします。


☆印を付けて五段階に分け、☆の多い順に挙げていきます。あくまで私の主観に基づいて、“連唱の度合い”が高いものほど☆を多く付けています。


また、☆の数毎に、(〜連唱歌)などと名付け、その特徴について説明を付けました。が、これらは前回のような「定義」とは異なり、ざっくりまとめた一つの目安であって、必ずしも互いに排他的に類別する呼び名にはなっていません。


☆☆☆☆☆(多連唱歌
長さ10以上の連唱が複数箇所に認められるもの。


[01] 津軽海峡・冬景色☆☆☆☆☆
阿久悠三木たかし石川さゆり


歌い出しから怒涛の拍頭多連唱。多連唱日本歌謡・短調曲の代表といえば、知名度も考慮するとまずは何といってもこの曲でしょう。「非連唱+準連唱」部分を巧みに挟みながら、「上野発の…」「北へ帰る…」「凍えそうな…」と同じ長さの多連唱が3回も歌われます。1コーラス中唯一の拍頭単連唱「連絡(船)」も力強く効果的です。「曲先」か「詞先」か知らないんですが、どうみても「曲先」ですよね。そこに、3音節、6音節の語句ばかりで15音つなげ、最後に4音節の語句を持ってくる拍頭19連唱!の歌詞を乗せる。その内容も、ほぼ具体的な叙事叙景のみによって普遍的な情景情感を導いている。みごとです。あるいは、もしこれで「詞先」なら、三連連唱の旋律に乗せることはむしろ必然になってきます。そうしない作曲家はもはや「才能ナシ」でしょう。


以下は細かい話になりますが…


長母音と連唱について。
「夜行列車」の「こう」は長母音で、「こ」と「う」の音程も同じ。よって厳密にはここで連唱が切れるともいえます。「長母音はあくまで長母音、送り仮名をそのまま発音するのではない」と言って譲らなかった父・岳の声を思い出します。今の例だと、「やこう」とは書くが発音は「yakou」ではなく「yako:」だということですね。そうだとしてもこの歌のここは「や」「こ」「ー」の3連続音に聴こえるともいえ…微妙です。2番の「竜飛岬」は文句なしの連唱ですね(次項参照)。


「ん」「っ」と連唱について。
「『ん』や『っ』は連唱を切ると見做すのか」という、「単位音価に乗る『ん』や『っ』」の認定問題というのもあります。「ん」については、聴感上独立音価として扱える場合も多くあります(→注)。ただ、前項とは反対に1番の「上野」に対応する2番の「ごらん」の「ん」は、単なる[n]なのか独立音程(独立音価)なのか微妙ですね…。「っ」については、音程不定としての×印の符頭を与えて音価と認め、他の音と同様に扱うことにしましょう。つまり休符ではないと捉えるのです。この曲だと「列車」は連続音と見做せます。加えて、「津軽海峡・冬景色」の「列車」の「っ」はどうかというと、「れ」「えっ」「しゃ」という具合に「えっ」にも音程(しかも直前の「れ」と異なる音程)を設けて歌われているともとれ、十分に連唱と認定できます。


注…単位音価音に限らず、日本語の歌における「ん」は、独立(と見做せる)音価が与えられることが少なくありません。ここが欧米語の[n]とは違うところで、「日本語の歌には、旋律だけを取り出しても曲として美しいものが多い」ことの理由の一つになっていると考えます。この辺りは後に詳述しようと思っています。

 


津軽海峡冬景色 石川さゆり Ishikawa Sayuri

三連連唱の調べ[第2回]

──本稿(「三連連唱の調べ」全回全文)を亡き父に捧げる。──

定義集

以下のすべてにおいて,k,nは正の整数(1,2,3,……)とする。

(1) 「拍節音価」および「単位音価概念」
「旋律中のどの長さが1拍の長さであるか」については,本稿で扱う曲ではすべて「聴感上明らか」としてよいと思われる。その1拍の音価を「拍節音価」という。原則として,歌詞の語句の一音節が乗る音価のうちの最短の音価を「単位音価」という。すなわち三連連唱を扱う本稿においては「拍節音価の3分の1の音価」を単位音価とする。拍節音価の3分の1よりもさらに短い音価に歌詞の音節が乗るような例外的な曲もいくつか扱うが,その場合でも「単位音価」は「拍節音価の3分の1」とする。

この(1) がやや回りくどい表現になるのは,各曲の楽譜が何分の何拍子で書かれているのかは一般には不明なためである。4拍子か2拍子かは聴いただけでは不明,実質2(4)拍子である8分の6(8分の12)拍子の可能性,速い3拍子を1小節1拍にとる場合,そもそも“分母”の音符の種類は今は本質とは関わらない…などなど,様々を考慮していった一つの着地点として,上のようなまとめになる。多くの曲では「4分の4拍子,1拍中の三連符は8分音符の三連符」として書かれているだろうから,以下では,「拍節音価」を「4分音符(の音価)」,「単位音価」を「3連符連桁内の8分音符(の音価)」に置き換えて読んでもらっても大方差し支えない。

(2) 「長音」
単位音価よりも長い音価の音符を「長音(長音価音)」という。

(3) 「拍頭」「拍央」「拍尾」
1拍の中の単位音価の3つの位置について,先頭位置を「拍頭(はくとう)」,中央位置を「拍央(はくおう)」3つめの位置を「拍尾(はくび)」という。拍頭の音を「拍頭音(はくとうおん)」,拍央の音を「拍央音(はくおうおん)」,拍尾の音を「拍尾音(はくびおん)」といい,それぞれの略称を「頭音(とうおん)」「央音(おうおん)」「尾音(びおん)」とする。

(4) 「連続音」
旋律の歌唱(の記譜)に「単位音価音ばかりが2個以上続いて並ぶ箇所」がある場合,次の(4-1)または(4-2)のいずれかの部分のことを「連続音」という。
(4-1) その箇所の直後が長音ならば,先頭の単位音価音からその長音までの(すなわちその長音自体も含む)部分
(4-2) その箇所の直後が休符ならば,単位音価音の並んだその箇所全体

(5)「開始音」「末音」
連続音の最初の音を「開始音」という。
連続音を形成する最後の音(すなわち(4-1)の長音または(4-2)の「休符」直前の単位音価音)を「末音(まつおん)」という。

(6) 連続音の「長さ」
1つの連続音に含まれる音の総数を連続音の「長さ」といい,長さがkの連続音を「長さkの連続音」または「k連続音」という。

(7) 「連唱」「k連唱」
頭音を2個以上含む連続音を「連唱(れんしょう)」という。k連続音である連唱を「k連唱」「長さkの連唱」という。

以下の「譜例」について。
◇末音を除き,拍頭の単位音価音を j,拍央・拍尾の単位音価音を i で表す。
◇末音だけは単位音価音と長音の区別をせず,拍頭なら j,拍央・拍尾なら i で表す。

(8) 連唱の「次数」
「『1つの連唱に含まれる頭音の総数』から1を引いた整数」を連唱の「次数」という。次数がnで長さがkの連唱を「次数nのk連唱」または「n次(の)k連唱」という。
例えば,以下の連唱の次数はいずれも2である。
(8-1) 拍頭からの長さ7以上9以下の連唱
   j i i j i i j,j i i j i i j i,j i i j i i j i i
(8-2) 拍央からの長さ9以上11以下の連唱
    i i j i i j i i j, i i j i i j i i j i ,i i j i i j i i j i i
(8-3) 拍尾からの長さ8以上10以下の連唱
    i j i i j i i j, i j i i j i i j i ,i j i i j i i j i i

(9)「単連唱」
「次数1の連唱」すなわち「頭音をちょうど2個だけ含む連唱」を「単連唱(たんれんしょう)」という。すなわち単連唱には,開始位置と長さによって区別すると次の9通りがある。
(9-1) 拍頭からの長さ4以上6以下の連唱
   j i i j,j i i j i,j i i j i i
(9-2) 拍央からの長さ6以上8以下の連唱
    i i j i i j,i i j i i j i,i i j i i j i i
(9-3) 拍尾からの長さ5以上7以下の連唱
    i j i i j, i j i i j i,i j i i j i i

(10)「多連唱」「重連唱」「複連唱」
「次数が2以上の連唱」すなわち「頭音を3個以上含む連唱」を「多連唱(たれんしょう)」という。(8-1)(8-2) (8-3) からもわかるように
(10-1) 拍頭からの長さ7以上の連唱
(10-2) 拍央からの長さ9以上の連唱
(10-3) 拍尾からの長さ8以上の連唱
は多連唱となる。多連唱のことを「重連唱(じゅうれんしょう)」ともいい,nが2以上のとき,n次の連唱を「n重連唱」ともいう。nが2以上のとき,以下はいずれもn重連唱である。
(10-4) 拍頭からの長さ3n+1以上3n+3以下の連唱
(10-5) 拍央からの長さ3n+3以上3n+5以下の連唱
(10-6) 拍尾からの長さ3n+2以上3n+4以下の連唱
2重連唱すなわち2次の連唱を特に「複連唱」ともいう。

(11)「準連唱」「準連唱の次数」
「長さが3以上の連続音のうち,頭音をちょうど1個だけ含むもの」を「準連唱(じゅんれんしょう)」という。すなわち準連唱には,開始位置と長さによって区別すると次の6通りがある。
(11-1) 拍頭からの3連続音 j i i
(11-2) 拍央からの長さ3以上5以下の連続音
   i i j,i i j i,i i j i i
(11-3) 拍尾からの長さ3または4の連続音
    i j i,i j i i
準連唱にも次数を与える。準連唱の次数は0と定める。

(12)「拍頭連唱」
「開始音と末音がともに拍頭音である連唱」すなわち「拍頭からの3n+1連唱」を「拍頭連唱」という。例… j i i j i i j (長さ7の拍頭連唱)

(13)「切分的」「切分連唱」
末音が頭音でない連続音を「切分的」と形容し,切分的な(準)連唱を「切分連唱(せつぶん(じゅん)れんしょう)」という。
準連唱は,「拍央からの3連続音」を除き,すべて切分的である。
切分的な連続音は2種類ある。末音が央音(〜 j i )であるとき「拍央切分」,末音が拍尾音(〜 j i i )であるとき「拍尾切分」という。
例… j i i j i (拍央切分の切分5連唱)

補足1 「連唱および準連唱の個数」
ある曲の中の連唱や準連唱の個数について言及する場合は,特に断らない限りその曲の「1番(初めの1コーラス)」の中の個数のこととする。

補足2 「連唱の認定」
ある曲のある部分の連唱の成否・種類は主にその曲を歌う代表的歌手の歌唱の聴感によって行う。ただし,いわゆる「くずし」については,代表歌手が常にくずして歌っている箇所でも元の記譜は連唱と推定できる,などの場合はそこを連唱と見做すこともありえる。

三連連唱の調べ[第1回]序説

日本のいわゆる歌謡曲─ポップスについて、その1拍の音符の音価を仮に4分音符に統一することにしましょう(実際の楽譜もほとんどがそうだろうと予測します)。すると、基本となるリズムについて、1拍中に入る8分音符が2つではなく3つ、すなわち三連符であるような曲があります。例えば、

 

精霊流しさだまさし、グレープ)

白いブランコ(小平ほなみ/菅原進、ビリー・バンバン

心のこり(なかにし礼中村泰士細川たかし

 

などです。これらを「三連連唱の歌」と称することにしましょう。こうした三連連唱の歌は、全体から見れば数は少ないとはいえ、上記の他にもまだまだありますし、これらよりもさらに“三連連唱の度合いが高い”歌もあります。そうして想起・収集していくと、三連連唱の歌には「よくできた曲」が多いと気づきます。もちろん、ある曲が「よくできた曲」かどうかの判断は私の主観のみに依っているんですが、少なくともその限りにおいて、日本の、すなわち日本語の歌詞が歌われる三連連唱の歌は、優れた曲が揃っているといえそうです。このことは以前から私の中に問題意識として浮上していまして、この度、改めて「よくできた」三連連唱の歌を次々と紹介してみたい、そこに蛇足的解説なども加えてみたい、と思い立ちました。

 

海外(由来)の三連連唱の歌もあるようです。例えば

 

モーツァルトの子守唄
フォスター「夢路より」(卵からプロテア)
「キャッツ」より「メモリー

 

がそうですが、どれもテンポが遅いため、日本の多くの三連連唱歌のような「力強く畳み掛けるような感じ」はありません。海外の例をくまなく調べたわけではありませんが、それでも確実に言えることは、日本語(の歌詞)は、英語や他のヨーロッパ系言語(の歌詞)よりも断然、「速いテンポの三連連唱でパワフルに畳み掛ける」のに適している、ということです。

 

また、「三連」と聞いて例えば「あぁ、スウィングのことね」「伴奏が“三連系”か」と反応されるとすればそれはいささか短絡なのです。例えば外来の「雨にぬれても」や「アンチェインド・メロディー」は私のいう「三連連唱の歌」には入りません。「オー!シャンゼリゼ」なら“準”三連連唱、「オンリー・ユー」もぎりぎり“準”に認定されます。日本の歌でも「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」「虹と雪のバラード」「学園天国」などはいずれも伴奏がスウィングまたは三連符というだけで三連連唱ではありません。「男はつらいよ」ならギリギリの線上か…といったところです。これらの曲と初めに挙げた3曲との違い、だいたい察してもらえると思います。が、その類別をちゃんと行うにはやはり「何を以って三連連唱とするのか」ということについてある程度精密な定義が必要になってきます。そこで、次回からはまず、「三連連唱の歌」を論じるための新用語を定義していこうと思います。

浅田美代子「赤い風船」幻想

浅田美代子「赤い風船」が出てきたとき、

 

浅田美代子は歌が下手だ

 

というイメージがどこからも流布された。私の家族も「もうちょっと何とかならないか…」と苦笑しつつTVを見ていて、小学生の私自身もそのとき「よくこれで歌を出したなぁ」という印象を持ったのを覚えている。

 

私がいわゆる歌謡曲に興味関心を強く示していた時期は10代前半の数年だけだったので、以後、このことについて気にとめることはなかった。

 

この「赤い風船幻想(問題)」が私の中で再燃するのは、ずっと後の、個人アイドル全盛期を過ぎ、若い芸能人がアイドルでなく歌手またはアーティストを標榜して次々売り出されるようになった時代が到来してからであった。

 

赤い風船幻想と題して何を言いたいか大方予測されたことと思う。

 

──昔の女性アイドルの歌は下手だったが、やはり可愛らしく、その下手さ自体にも味わいがあり、昨今の歌手たちよりも魅力的な部分がやはりある、ということを再認識した。──

 

というところかもしれない。確かに、これが「赤い風船幻想」である。実は私も、“再燃”当初はこのように考えた。だが、今は考えが進み、実はこの認識こそがまさに幻想だと言いたい。つまり

 

下手ではないものを下手と思い込み、そのことを支持や贔屓(または不支持やマイナス評)の理由にする、という転倒がある

 

ということである。

 

幸い、現在は、その気になれば手軽に当時の映像音声資料に当たれる(を拾える)。この短い夏休みの中の1日、ふと思い立って、改めて浅田自身の当時の映像などに接してみた。その中で、『時間ですよ』で共演した天地真理、カバーをレコーディングした石川さゆり森昌子のものも聴いた。そうしてわかったことは、同曲の歌唱をあえて比較採点すれば、浅田は少なくともこの4人中では天地に次ぐ2番目であるということ。石川も森も、跳躍先の本来の高音にしっかり飛ばない場面があり、あれどうした?と肩透かしを受けた(もちろん、そういう歌唱法は、一般には、意図してなされることもありかつそれこそが巧さとなることもあるが…)。対して浅田は、少なくとも私が接したいくつかの映像(ドラマ内と歌謡番組の両方を含む)において音楽の三要素すべてにおいてこの持ち歌をほぼ完璧にこなしている。つまり今となっては

 

浅田美代子は下手だという固定観念そのものが、その作用の否定性肯定性によらず、作られた幻想であった

 

という結論に私は近づいている。もちろんそうなった理由はあろう。それは

 

主にファルセットの不安定感

 

によるのだろう。浅田はこの曲の大部分を(おそらく)ファルセットで歌っている。専門的訓練を受けずに出す裏声が安定して伸びのあるものになろうはずはなく、「今にも音を外しそう」な絶妙さでずっと進むのも事実である。そこを捉えて多くの人が「つい」下手だ、音を外している、と聞いてしまったと思われる。

 

まさにそれこそが下手ということ(の少なくとも一種)ではないか

 

と返されるかもしれない。確かに。それでも、よく聴くと、

 

浅田はほとんど、音程自体は、今にも外しそうではあるが、外していないのである。「外したかのように聞こえる」だけである。

 

ほとんどということは少しは外れているのではないか

 

とも訝しがられよう。それはそうで、私にもごく1、2箇所は確認できた。だが、現代の“ヴォーカリスト”たちを見よ。浅田とは逆に、音が外れまくっているように私には聴こえる。それでいてアーティスト/ヴォーカリストを名乗り、人によってはカリスマ化している。そちらの欺瞞性の方が、浅田のようなアイドルを「下手でもいい」と愛でることに比べても、よほど問題ではないのか。

 

浅田美代子は、まさか、巧くはない。その歌に対する“非専門性”について、改めて力説するまでもない。しかし、“非専門の申し子”ではあっても、“下手の代名詞”ではない。けっして。そのような流布があるとすればそれは是正されるべきだ。浅田よりももっとずっと下手な人間が堂々と歌手を気取る時代に来ているという自覚の下に、特に強調するものである。

 

もとより浅田を贔屓する人たちの多くは、「下手だが魅力的」「下手なところがいい」という目の向け方をしておられるのだろう。彼女の歌唱にプラス価値を見出している点では賛同する。彼女の歌唱に独自の魅力があることを端から私も否定していない。私はそれに加え、下手でさえない、下手でさえなかったことに気づいた、と言っている。彼女の歌を(マイナス的に)下手の代名詞と認識していた人にも、彼女の(歌の)ファンの人にも、このことは報告しておきたいと思った次第である。


73'「赤い風船」 浅田美代子 堺正章 天地真理

『シン・ゴジラ』について

PC内のファイルを整理していたら、『シン・ゴジラ』鑑賞直後に書きかけていた拙文が出てきました。気の向くままわーっと書いたものの、けっきょく発表は控えたのでした。当時、巷が絶賛する中、大勢に屈した(頭掻)?屈したというより、あまりに周囲と自分が異なる気がして、何だか心が萎み、引っ込めてしまったのだと今の自分としては釈明しておきます。今見直せばまた評価が違ってくるかも、という留保も一応添えつつ(苦笑)、ほぼほぼ当時のまま投稿します。ネタバレありなのはもとよりで、その点ご容赦ご了承のほどを。
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高い評価では主に、人間ドラマをしっかり描いた所を○としているようだ。が、それはまるで転倒した見方のように思う。

リアリティーの追求に躍起になるあまり、ゴジラが完全にそのダシとなり、「現実的描写」に都合よくあてがわれる「虚構の使徒」になりさがってしまった。

本来、ゴジラそのものの存在を押し出してこそゴジラ映画であろう。初代はもちろん、一般評価が低い(からこそおそらく)昭和ゴジラジュブナイルゴジラも、当然ながらこの点だけは必ずクリアしていた。その後、平成ゴジラで、肝心のそこが弱められ、ゴジラ自身はvsキャラや人間ドラマのダシに回された。ミレニアムゴジラで久しぶりにゴジラ自体にスポットライトが当たる作りになり、溜飲が下がった。「ミレニアム」「×メガギラス」は傑作となった。

 


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それにしても、ゴジラで描くリアルといったら、政府と自衛隊を詳細に描くことしかないのか。冒頭から延々と続く政界風刺には心底がっかりした。それをゴジラだからこそできると思っているのか、あまりにもくど過ぎる。

自衛隊の扱いも、協力を依頼してそれが得られたものだから、それに見合った詳細を描かないといけないということになり、あそこまでになったのだろう。

政府も自衛隊も描かない(少なくとも背景的な存在とする)ことは可能である。描かなければいいだけのことである。ゴジラ映画では「ゴジラこそがリアリティー」である。そこさえ外さなければ、ゴジラと対峙する人間(たち)をどのような存在に設定するかは自由のはずであろう。

ところが「政府と自衛隊を描かなければリアリティーがない」と思い込んでしまう。

「リアリティーの追求」の末路は必ずこうなる。現代のほんものの災害や危機のように躍起になって描いた結果がこれか。

けっきょくクライマックスはゴジラの凍結という、これまた陳腐な始末の付け方。で、その人間ドラマ側の機が熟すのをゴジラが「待つ」ことになる。いや、「放射熱線等放出後いったんゴジラの活動が収まる」というフィクション自体はむしろ優れている。だが、それを、人間ドラマの都合にしか活かすことができていない。つまり、そのために与えられた設定のように見えてしまう。製作時の経緯がたとえその通りであったとしても、作品を視聴する者にそう感じさせてしまっては、本末転倒である。これを以て“フィクションの不活性”という。作品世界の中で、ゴジラのその特徴に気づき、それを掬い上げて活路を見出そうと登場人物たちが動いていく…、そこをダイナミックかつ繊細に描いてこそ、こうした「怪獣映画のフィクション」は活きるのである。

で、ゴジラを待たせている間に、つまり凍結作戦を準備する人間ドラマが詳細に描かれるのを見て、「…てことは、ゴジラはもう、さっきのあのシーンよりも派手には暴れないままで終わるんだろうな」と予測できてしまう。そうか、だから「ゴジラの山場はここね」という感じで、やたらと強く神々しく描いておいたんだな、と読めてしまう。

そのシーン=ゴジラの強く神々しい威力を示すシーンにしても、少しの違和感があり、何だったかを考えてみると、ゴジラに意志や自我が感じられない点であったことに気づく。ゴジラはこのシーンで、放射熱線を初め、火炎の形で地面にうつむいて吐く。その圧倒的な大量の火の吐き方は従来にない迫力があるにはあったが、何だか、単なる生物的な吐瀉のように見え、怒りや破壊の「意志」からそうしたとは見えなかった。その後の、全身からの放射能の閃光も、外界からの反応、しかも幾分植物的な、ウツボカズラの食虫時にすばやく葉?を閉じる動きと同種の反射的反応のように思えた。動物的な「意志の発露」には見えなかった。あのような光線の発し方は、キングギドラには似つかわしいが、ゴジラにはふさわしくない。ゴジラの意志的存在部分が矮小化されてしまった。

予測できて/読めてしまうからつまらないのではない。つまらないという直観が先にある。おもしろいときはおもしろい。予測/読みが当たってもはずれても、「やっぱりそう来たか!」「へぇー、そう来るか!」のいずれになったとしても、おもしろければおもしろいのである。今は、つまらないという予測が当たって、その通り、つまらない…、ということを嘆いている。

平成ゴジラ路線をより徹底させた。せっかくミレニアムゴジラで、ゴジラ予知ネットワークなどの民間を人間側の主役の一つに据えるなど、いったんそれとは異なる方向へのシフトが試みられたのに。そちらを継いで欲しかった。

と思ったら、パンフレットのスタッフ陣のコメントがぴったりその通りで、喜んでいいのか悲しんでいいのか…。

ゴジラの意匠は秀逸。これまでで初代に最も似ているように見え、時代の進んだ分、デザイン自体/造型自体は初代をさえ凌ぐ印象。ただ、フルタイムで赤身が見えるのは唯一のマイナス。普段は“ゴジラ色”の皮膚のみの方がなおよかった。

ゴジラの意匠は本来、無個性である。怪獣の元祖である。いわゆる二足歩行型で、背びれと尻尾がある、あの造型、あの色。ゴジラといえば誰もが等しく思い浮かべるその姿。それは怪獣存在の原型である。そこに「特徴」は、ない。まさに怪獣として「無特徴」であることがゴジラを形作っている。

しかし、そこにもミソがつく。あの、「第一形態」は何だ。背びれだけが見える状態がしばらく続き、「おや、もうゴジラが出るのか。早いなあ」──と思っていたら、目玉のでかい恐竜顔が現れ、妙な上半身の動きにも興ざめし、「何だ、ゴジラじゃなかったのか。後でこいつを追ってゴジラが現れる、ということかな」──と思っていると、いきなりムクムクと変態して「えっ、こいつがゴジラゴジラになる??」… 繰り返しになるが、「予測が裏切られること」自体がわるいのではない。予測外の答のその内容自体にガッカリしているのである。せっかくの素晴らしい最終意匠が台無しの展開。あんな妙ちきりんな生物がゴジラ(になる)だなんて…、ゴジラの威厳はどこへ行ってしまったんだ…と嘆きたくなった。メタモルフォーゼのアイデアはいいが、もう少しリファインできなかったのか…。それとも、私が嘆くようなそういった特徴こそを狙ったのか。おそらくそういうことなんだろうなあ…。

アニメ畑の監督だからという先入観もあるのかもしれないが、あのメタモルフォーゼのCGシーンはアニメそのものではないか。アニメのセルを重ねるイメージでできあがった感じ。第一形態の、あの河の激流のように急速に動く流体的な皮膚の表面は、ゴジラの変異前としてはあまりにも不自然に過ぎる。「もはや人知・想像が到底及ばないような存在である」と言い訳すれば何でも通るというのでは本末転倒である。怪獣/ゴジラというものは、単に「ありえないべらぼうな存在」ではなく「ありえないがありそうな(面を持つ)存在」であってこそのものであろう。

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柳宗悦『工藝の道』(やなぎむねよし、講談社学術文庫、2005年)

2009年から数年に渡って、何冊もの文庫本に収められた柳宗悦の幾多の著述に触れてから、柳の文章に自分の内面の思考と外向の実践とを支えられてきました。民藝にあやかって楽藝(['gakugei]:第1音節にアクセント)と称して、トリカード・ムジーカの活動を続けてきました。トリカード・ムジーカに限らず、指揮であれクラリネット吹奏であれ、どこかで何かを為すときはつねに一本の筋を意識しています。……といっても、柳の民藝と自分の音楽活動とが具体的にどうつながっているのか、うまく説明はできません。そもそも直接のメタファー/対応はどうにも成り立たない気がするし、まさに相反するようでもあるし、誤解しているかもしれないし、大きくずれているのかもしれません。それでも、何かが通じている、どこを向いて生きればいいのかを学んできた、というこちらからの勝手な確信だけは抱いてきました。

 

柳宗悦研究の第一人者である中見真理さんが、ご講演で(だったか著書『柳宗悦 時代と思想』の中でだったか)、「柳は金太郎飴のように同じことを繰り返すが、その筆力に引き込まれる」というような意味のことをおっしゃっていた(書かれていた)記憶がありますが、その通りで、「直観によって、無名の美を見出し、愛で、運動によってそれを守り、また広げる…」といったことが、ひたすら述べ続けられます。しかし読んでも読んでも飽きることはないのです。まさに著者本人が飽きずに書いているからでしょう。その奥にある抑えた情熱に、心惹かれ頭惹かれ続けてきたのです。

 

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「多」と離れることによって「孤」を守るべきではなく、「孤」を「多」の中に活かさねばならぬ。

===(182頁)===

 

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美を保証しない制度を正しい制度ということはできぬ。私たちは美の実現のために正しい社会を喚求する。

===(186頁)===

 

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美しい工藝には、いつも協団的美が潜む。離叛と憎悪との社会から、美が現れる機縁はない。美の背後には何らかの意味で愛の血が通う。神への愛、人への愛、自然への愛、正義への愛、仕事への愛、物への愛、かかるものを抹殺して美の獲得はない。

===(188頁)===

 

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私は私の思想をすべて私の直観と内省との上に築くことを余儀なくされた。その結果一般の見解との渡りがたい間隔が一層意識せられた。私が観じて最も美しいとするものは、かえって史家が最も無視する分野に属する。

===(207頁)===

 

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駒尺喜美『紫式部のメッセージ』(こましゃくきみ、朝日選書、1991年)

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駒尺喜美さんは祖母・小西綾と約50年連れ添った同居人。小西・駒尺は日本のフェミニズム黎明期を牽引したうちの二人で、一定以上の世代の女性学に携わる人ならまず知らない人はいないと信じます。綾は、単著は1冊も残さなかった運動家で、東京での勉強会の中心になったり大阪・広島などを講演して回ったりした、いわば女性学のソクラテス。駒尺さんはフェミニズム批評でいくつもの著作を残した文学研究者。

 

『結婚の向こう側』に引き込まれ、『魔女の論理』に戦慄し、『漱石という人』をガイドに『三四郎』『それから』『こころ』『行人』へ。そして、旧著の文庫化である『高村光太郎フェミニズム』に感動したのと同時期、確か『漱石という人』の次の新著として出版されたのが『紫式部のメッセージ』でした。熱く読み進んだ当時の感触がよみがえります。…が、詳しい内容は忘却(苦笑)。この機に再読しようと思います。