音楽の編み物

シューチョのブログ

河上隆介指揮セブンスター・オーケストラ第10回記念演奏会

2年ぶりに、セブンスター・オーケストラ演奏会に足を運ぶことができました。今年は第10回記念演奏会ということで、ローマの謝肉祭、牧神の午後への前奏曲、ラ・ヴァルス、幻想交響曲の4曲という、欲張りなプログラム。
 
指揮棒を持たない素手のスタイルで河上隆介が振るのを今回初めて見ました。それが明らかに奏功したと思える場面が続出しました。細かな腕先手先指先の妙。例えば幻想開始早々、第1楽章第4小節で、弦のフレーズの終わりが8分音符でなく16分音符であることが「わかり」ました(うろ覚えだったのですが、彼の動きからそう読めて、後で確かめるとやはり、といった具合)。そういうことの連続でした。
 
殊に、作品に標題的な内容が色濃く出る部分に対して威力を発揮していたと思います。幻想なら第2楽章を除いた4つの楽章ですね。先述の第1楽章を見て「これは第3楽章もかなり表現を仕込んでくるのでは」と予測しましたが、案の定、弦の旋律のニュアンスなど、よくもそこまで、と思えるほど細部を振り分け、またオーケストラもそれらをほぼくまなく音化して進んでいったと思います。他に、ティンパニの“遠雷”部分の中強奏による踏み込んだ表現も印象的でした。私は基本「棒持つ派」なんですが、左右両手とも掌が自由に使えるということがこれほど指揮法を豊かにするのか、と…改めて思い直した次第です。ストコフスキーの場合は彼の個性/魔法の賜物で自分には無関係のような気がしていましたが、河上隆介がやると、指揮法の一実践として身近に感じ、試してみたくなりました。
 
きっかけは「指揮棒を飛ばして楽器に当たったりということがしばしば起こり、危険だったから」とのこと(笑)。そうそう、僕もよく飛ばしてしまう。「いい具合に腕の力が抜け、柔らかい状態だとかえってよく飛ばしてしまう」との彼の言葉には大きく同意しました。彼は、今後とも素手で行くのかもしれません。
 
第4楽章で特筆すべきは、終結近くのクラリネットの下降グリッサンド!でしょう。まさに断頭台上の叫び。
 
そして今日の白眉は第5楽章の鐘→怒りの日のくだりです。ひな壇上ではなく1stVnの真後ろで床に置いて叩かれた鐘の強烈な金属音に続き、2本のテューバの渾身の強奏、そしてその直後のホルンとトロンボーンがmfに抑えられレガートのコラールとして現れた瞬間、マルケヴィチ/ラムルーo.の名盤を初めて耳にして以来の、と言っていいほどの戦慄を覚えました。
 
河上さんとは、2001年の女満別小林研一郎指揮法セミナーで出会い、打ち上げで意気投合。その後、かたや紆余曲折(笑)のノンプロ、かたや脱サラし“転向”プロの道を歩みました。しかし、17年経った今も、大事な部分の情熱は変わらず持ち続けていることを互いに確認できました。
 
すなわち──指揮(法)とは何某かの身体表現であり、その身振り/立ち振る舞い自体が、今まさに演奏して生まれ出んとする音楽を直に表す…そのような指揮こそが目指すべき指揮である──彼も私もそういう考えであり、そういう仲間/同志なのです。

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