音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (36)

 大晦日、N響の第九はスラットキン。この指揮者は何かしら「おや?」と思わせることを仕掛けてきて、大きな感動とまで行かないながらも、なかなか面白い。一例は、歓喜の主題をヴァイオリンにはA線で弾かせたことでしょうか。

──ですが、本稿の本題は「紅白歌合戦」の方です(笑)。「紅」「白」それぞれ最も印象に残った演目について一つずつ書いておきます。

氷川きよし「きよしのズンドコ節」

非の打ち所のない、パーフェクトな歌唱。冒頭「ズン、ズン、ズン、ズンドコ」の3つめの「ズン」の裏返りから始まって、曲のどこも、あそこもここも、かゆい所に次々と手が届くような、「これが、この曲」と言えるような必然的な表現でした。例えば、作り手の作詞家・作曲家も、自分の創作がこのように理想的に再現されることに驚いたのではないでしょうか。氷川はもともと才能よりは努力の人であり、彼の歌っているのを見ると、練習を十分積んできた成果の披露、という感じがいつもしますが、彼がそういうタイプであったことが、レコーディングにおいてではなくこのようなライブにおいてまさにさらに活きてくる、というところが面白い。多くの人は「初めてのオオトリで気合い十分だった」とか言うのでしょうが、ここではあえてそのような褒め方は慎み、「一度きりの貴重な記録」と言うに留めたいと思います。

さて、もう一つの方ですが、そのすばらしさを伝えるには、《フレーズの途切れ》という問題についての説明が必要でしょう。《フレーズの途切れ》とは次のような例を言います。

今井絵里子が「White Love」の「もっとちゃんといつもつかまえ」と「ていて」の間で

・(今回の紅白には出ていませんでしたが)島倉千代子が「人生いろいろ」の「女だっていろいろ咲乱れ」と「るわ」の間で

それぞれブレスします。どうしてこういうことが平気で為されるのか、僕にはまったくもって理解し難い。以上の2例は、詞・曲ともに「どこかで止む無く切るとしても、ここだけは切るな」という箇所をわざわざ選んで切っている、という最悪の例と言えます。歌詞のことだけを言っているのではありません。仮にこの部分の旋律だけを独奏楽器で演奏することを想像してみて下さい。やはりどう考えてもそこだけは何とかつなげようとする箇所ではありませんか。

もっと例を挙げて論じてもいいのですが、本稿は「旋律造型学」ではありませんし、特に曲=旋律の構造の《途切れ》の問題を論ずるのは、フレージング自体が一意的ではないために少々込み入ってきますので、詳述は避けます。が、詞の言葉を切断する《途切れ》については、誰にでも見出せると思いますので、注意していろいろ聴いてみて下さい。

そして、なかなか驚いたのですが、

絢香「おかえり」

にはこのような《途切れ》がまったくありませんでした。歌いだしからしばらくを聞いて「お?」と思い、耳を傾け、ずっとチェックモードで聴いたのですが、最初から最後まで、詞の内容から見ても旋律の構造から見ても、つながるべき所が必ずつながっていて、しかも切れるべき所でちゃんと切れている。曲のすべての部分(旋律・動機)が、「歌う側の都合」に左右されず、曲の内容と構造の必然的なまとまりを持ったまま耳に届く。つまり、「旋律の、みごとな造型」がそこにあるのです。現在の「J-Pop界」において、このような歌手はまことに希有だといっていいでしょう。