音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (15)

 何かと話題になった平城遷都1300年祭キャラクターの名前が決まりましたね。

 これを初めてニュース映像で見たとき、「お、なかなかオモロイのが出たもんだな」と思ったものでした。「コーベアー」とか「ひこにゃん」とかをどうでもよい・つまらんキャラクターデザインと考えてきた僕としては、そうこなくちゃ、と愉快な気持ちになったのでした。制作者の籔内佐斗司さんの「平城遷都1300年祭マスコットキャラクターに関するお問い合わせに対する総括的なご回答」を読んで、僕がこの騒ぎに対して感じ考えてきたことをほぼそのまま籔内さんご本人も思ってこられたのがよくわかりました。彼は、童子に込めた意味を次のように述べます。

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科学者は、この世の仕組みを語るとき、原子や分子、電子、素粒子などの「子」を持つ存在で説明します。わたしは、彫刻家として童子という「子」を持つキャラクターで表現してきたわけです。

======「2) デザインコンセプト」より

また、芸術表現の感想・好悪は受け手次第であるとしながらも、よくない第一印象というものは徐々に変化するのが常で、むしろ違和感が多くあってこそ作品の価値が出る可能性があると「楽観視」(「3) 批判について」)しています。また、既存の自治体マスコットと大きく異なる(から困る)、という批判には、それらの傾向についてなどついぞ考えもしなかった、ときっぱり(「4) 自治体イベントのキャラクターについて」)。

今回起こったさまざまな批判のうち、最ももっともらしいのは「公金が使われるから市民の意見が反映されるべき」というものでしょう。籔内さん自身は、そういう批判は制作者個人ではなく行政に対してなされるべき、表現の自由の危機、とされています(「3) 批判について」)。至極ごもっとも。ここでは少し別の観点から付言すると、こういう批判を言う人の多くは、公のものだから公募だ多数意見だ、としたその結果がたいてい恐ろしくつまらないものに納まってしまう、という嘆きを経験していないのではないでしょうか。花博の《いのちの塔》を見て「《太陽の塔》との何という違い…」と落胆しなかった人ではないでしょうか。行政が非公開で芸術家やデザイナー?から募ったからこそ今回のキャラクターは登場しえたのでしょう。そしてその結果を歓迎するような「一般市民」もいる、ということはどうしても言っておきたい。──もっとも、このようなキャラクターに大金を使うこと自体の是非を問うといった「そもそも」論は今は置いています…──。

もう一つ、一部の僧侶の人々の「仏様を侮辱している」という意見について。まず、これは仏ではなく童子だという制作者の意図をなぜ無視するのでしょうか。そして、仮に「仏の頭から鹿の角、と見える」という主張を認めるとしても、どうしてそれが侮辱になるのかがわかりません。一切衆生を救うのが仏教だとすれば、その「一切」の中には鹿などの動物も当然含まれるのではないでしょうか。その鹿の角を仏様の頭にあてがうと侮辱になるというのは、鹿と人に貴賤の差を付けていることになり、そういう差別は、すべてを救うという仏教の平等観からはズレてくるような気がするのです。それとも人や動物は平等でもそれらと仏とは一線を画すのでしょうか。もちろんそこに何らかの一線があるからこそ仏という概念があるのでしょうが、それでも鹿の角を生やすのは×という発想と「一切衆生を救う」という理想とはやはり親和的とは思えません。決して揚げ足取りや皮肉ではなく、僕なりに無知ながらも真面目に考えてこういうのですが…。

この件については、当ブログ読者のみなさんの中でも意見の分かれる可能性がありそうですね(少なくとも「シェレンベルガー指揮の40番がつまらんかった」ということよりはずっと?!)。補足や反論があればどうぞコメント下さい。

当ブログのキャラクター・シューチョの著作者・ジューニョが、名前決定のニュースを見て一言。「いずれにせよ《せんとくん》自身に罪は無い。だから彼の名字が《いの》だったことにして《いのせんとくん》というのはどう?」(笑)