音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (18)

  カンペ見んな!

 例の「愛は地球を救う」なるTV番組を少し見かけました。タレントやお笑い芸人までがいろんな歌を次々に歌い継いでいくスタイルが恒例のようです。歌というのは普通、メロディはいつの間にか憶えることができても、歌詞はそうはいかない。自分の持ち歌でないものを歌うわけですから、歌詞は頭に入っていないわけで、どうするかというとおそらくカンペを出すわけです。僕はこのような画面に出遭う度「カンペ見んな!」と小さくツッコミます。あの、カメラ目線のふりをしつつ実はカンペモードの斜め上目遣い、というのが、実に見苦しい。憶えていないんなら、譜面台を立てて歌詞カードか楽譜を置けっちゅうに。そのごくあたりまえの状態で始めて、しかしそれらにかじりつきではなく、生本番なりの表情と視線をも自然な仕草でカメラに送りつつ歌えるかどうか、そういう技術こそがTVタレントには要求されてしかるべきではないでしょうか。ところがこのような批判をすると、批判の対象の方でかってに「自分が歌う歌くらいおぼえていなくてはいけない」という批難にすり替えてしまい、さらにこちらの主張から遠く「できるだけ憶えて歌うよう努めます」みたいなことにたぶんなっていく…。試験と同じで、これ(非持ち歌の歌い継ぎの舞台)は「持ち込み不可」の科目だからと自らを縛っておきながら、その実、カンニングに頼る、という馬鹿げた状況。歌を歌うという行為において、楽譜(歌詞カード)というものは初めから「持ち込み可」であり、不正でも何でもないはずです。カンペ目線とは、まさに暗譜主義の裏返しといってよいでしょう。

 ──と書きましたが、僕はカンペの証拠を目撃したことはありませんので、慎重に言えば「暗記した歌詞を思い出しながら歌っているために、自然と皆、斜め上目線になる」ということもあるかもしれませんね。しかし、仮にそうであっても、そのような斜め上目遣いでTVに映ることより、譜面台やカメラや隣の仲間などさまざまに視線を送りつつ歌い過ごす方が数段いいでしょう。その方が観客も視聴者も自然に感じるはずです。すなわち、ほんとうの暗記であれ、暗記のふりのカンペであれ、「宙に浮いた視線」というのは不自然・不愉快という話でもあります(もちろん、そういうクセの人もいるとかいう次元でなく、演者ほぼ全員が一律にそうであるという状況を指して言っています)。

 まあ、そうは言っても譜面台の準備や入れ替えはたいへんだろうし、だからあのスタイルになったのでしょう。そんなことはもちろん察しています。けっきょく、何を優先するか、の違いですね。例えば「たいへんだからこのような進行はやめ、譜面台を置けるような演出にしよう」とはまずならない。このように自らの送る映像・音楽に対して繊細でない番組が、「愛で人を救う」といった繊細な心を訴えるのは、いささか言行不一致ではないでしょうか。もし「音楽や歌の力を信ずる」というなら、それを“感動秘話”の合間の場つなぎに使うな、秘話も音楽もどちらが主でも従でもないような内容と進行を模索せよ、と真面目に提言しておきましょう。

 ただし書きをあと一つ。例えば、萩本欽一さんのマラソンなどについてはここでは何も言っていません。この番組の全否定のつもりはありませんので誤解なきよう。といって、ここでは部分肯定もしていませんが(笑)。