音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (1)

 暗譜と暗譜主義 (1)

──「暗譜」の定義と造語「置譜(おきふ)」について──

 本稿において「暗譜」とは「楽譜を前に置かないで演奏する場合」を指すことにします。これに対し、「楽譜を前に置き、それを見て演奏できる状況にあるような場合」を「置譜(おきふ)」と呼ぶことにします。すなわち、たとえ自覚的にはその曲を「憶えている」状態であっても、「置譜」であれば「暗譜」とは言わないこととします。

──はじめに──

 ひどい近視だったトスカニーニが、本番中にスコアを見て指揮をすることができなかったので仕方なく苦労して暗譜して舞台に臨んだところ、「スコアを見なくても振れるなんて」とアメリカの聴衆が嬉々として彼を賞賛した。──指揮者が暗譜で振るという習慣はここから始まったと言われています。指揮者が暗譜で振るかどうかということは、演奏の善し悪しには直接関係はないはずです。ところが、「楽譜を見て振るなんて」という、暗譜至上主義とでもいうべき価値観が狭くない範囲で行き渡っているかのような節もあります。かの小林研一郎先生も徹底した暗譜主義または暗譜奨励派でした。

 ここではこういった、暗譜(と置譜)に関する問題について論じてみようと思います。前半(第1章と第2章途中までの予定)は、1998年の「ときの交響吹奏楽団」団内メーリングリストにおけるやりとりが元になっています。それをここでの発表に馴染むように私の“一人語り”のスタイルに書き換えました。当時、このような対話につき合ってくれた数人の仲間にはこの場で改めて感謝したいと思います。後半(第2章途中からの予定)は、暗譜に対して最近得た認識を元に、ここのために書き下ろしました。

──第1章──

 私がまず念頭に置いているのは「指揮者の暗譜」についてなのではありますが、少し“脇の入口”から入ることにします。

 協奏曲のソリストは暗譜が常識のようですね。私などは「だからつまらない演奏が多いのではないか」とか考えてしまいます。憶えていても置譜でやればいいのに、と思う。なぜ楽譜を置かないのか、それは「私は暗譜しています。見なくてもできます。」と示したいからにすぎないのでしょう(すぐ後で論じますが、もうひとつあると思います。そちらもけっこう今の話では重要です)。演奏者が演奏曲の楽譜を憶えているかどうかということは、いい音楽を求める鑑賞者にとっては二の次のこと、もっと言えばどうでもいいことです。いえ、ほんとうは、いい音楽を求める演奏者=表現者にとっても二の次のことではないでしょうか。憶えていてもいなくても置譜でよい。暗譜では、演奏中には作品と頭の中だけでしか関わらないのに対し、置譜では、演奏中も楽譜を通じて視覚的にも作品と対話できます。いい演奏・おもしろい演奏という目標を掲げた場合、一般論としてはどうしても置譜の方に軍配が挙がると思うのですが…。

 置譜にしない理由のもうひとつは「楽譜が目に入ると邪魔」ということではないでしょうか。せっかく憶えてきた曲を憶えた通りに難なく演奏し通すためには、リアルタイムに楽譜を見ることが却って妨げになるのでしょう。ふと今、小テストの直前に復習の時間を設けようとすると「忘れんうちに早よやって。」と文句を言う生徒がいたことを思い出しました(笑)。置譜にすると、憶えてきたことと違うことをその場で読み取ったり感じたりしてしまって、予定が狂い慌てる可能性があるということです。そういうことで慌てるくらいなら、最初から憶えなければいい、ということになりはしませんか。ところがどうもこの逆の考え方が一般音楽界には通用しているようです。「邪念を払拭し純粋な気持ちで演奏するためには楽譜も見ない方がよい」「憶えてしまって、暗譜でできるようにしてからでないと。本番に楽譜を見ながら、なんて余裕はとてもありません。」など…。作品の演奏のために、その作品の作家が授けてくれた唯一の情報であるはずの楽譜が、邪魔になるとはどういうことでしょう。「暗譜もしないで作品を解った気になるなど、もってのほかの思い上がり」と言う人には「置譜もしないで作品を自分の頭の中だけで処理する方がよほどの思い上がり」と返したい。もちろん我々の目的は楽譜と向き合うことではなく作品自体および作曲者と向き合うことです。しかし、

 作品も作曲者も、楽譜の奥やその行間に存在するのであり、楽譜を伏せた所には存在しない

のではないでしょうか。逆に、そういう楽譜(を読み取る自分の視覚)から離れて、別の可能性の世界に飛翔したいときもあるでしょう。そのときはそこで

眼を閉じればよい

のです。やはり暗譜より置譜の方が手広いと言えます。