音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (9)

吹奏楽部顧問時代(1994─2009)の演奏会パンフレットより 2002年(ウェブ初公開は2006年11月)

─── [……]子どものやっていることについて、一々一々実に気になって仕方のない方があります。子どものしていることの何とまずさよ、何とへまなことよ[……]それじゃいけない、そうじゃいけないというふうに[……]ひっきりなしに子どもに向かって働きかける先生です。たえずいらいらしながら働きかけるのです。いらいらとは、自分の心を本体として向うに要求する、非系統的断片的不満感情であります。自分の要求を以て相手を見て、思うようにならないとき、そう言う感情が起るのも、こっちからいえば説明のつくことでありまして、熱心であればこそ、そういう感じも起るわけなのではありますが、これを系統づけていけば、深みのあるしっとりしたものになるのを、非系統的に断片的に出してくると、このいらいらになるのです。

(太字は引用者による。[……]は「中略」を表す。) ───(倉橋惣三 『幼稚園真諦』 フレーベル館、1976年、36頁)

教師が生徒に向き合う日常の負の側面を、これほど静かに明快に述べた文章を僕は他に知りません。少なくとも吹奏楽部と過ごすときは、特に努めなくとも「非系統的断片的不満」を持って関わるということはなく済んできているだろうという自覚を、僕は幸いにも持つことができています。「上から前からものを言う者」として指揮者と教師は共通しているのですが、指揮者は「見られる側」に、教師は「見る側」にその本質が偏っている、という点がかなり異なる所でしょう。僕が吹奏楽部とは「いらいら」のない関係を保てているのは、そこの違いがあるから、つまり、自分が教師として生徒たちを「見ている」のではなく、指揮者として生徒たちから「見られる側」にいるからだろう、とふと考えました。学習、成績、服装、髪型、態度、表情…、など、生徒の“立居振舞”を「見る」のが教師であり、逆に奏者に自分の立居振舞を「見られる」のが指揮者である、ということです。

──余談:僕はよく「派手に振るのはいいが誰も指揮を見ていない」と批判されます。指揮者と奏者の関係というものをよく分かっていない人ほどこう言いたがるようです。今はさしあたり、「奏者にとって、指揮者の指揮する姿というものは、常に凝視・仰視していなくとも(いやでも?)ちゃんと視界に入ってくる」という単純な点だけを、指摘しておきます。──

今年は合同演奏(の練習)を通じて、普段会わない小学生たちと向き合う機会もあり、自分はどう「見られ」ているか、というテーマについて改めて考えた次第です。ちょうど、4月に見た福尾野歩(→注)さんのコンサートでの彼の「大人が本気を見せることが大事」との言葉には、「それなら何とかできそうだ」と勇気づけられました。「“見せる”ことによって“見られる”こと、そこから始まる」ということなのでしょう。さて、しかしこれは「こちらが“見せ”、“見られ”れば、みんなは必ずわかってくれる」ということではありません。「わかっているんだろう」「わかっている人もいる」「わかっている時もある」「わかる可能性を秘めている」という期待と希望を持って向き合えることが喜びなのです。 注:ふくおのぼ・旅芸人。1955年、静岡県三島市生まれ。コンサートや講演を各地で開催し,独自の芸風で活動を展開,親子・保育関係者の熱烈なファンを持つ。『あそびうた大全集』(クレヨンハウス、1991年)、『永六輔の芸人と遊ぶ』(小学館、2001年、永氏との対談収録)など。