音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人,わかる時,わかる可能性 (3)

   1996年

 音楽表現の指示を連ねて終わる普段の合奏練習のその奥で、語らずに置いてきたことを、他ならぬその練習成果の最大の発表のときとなるこの定期演奏会に寄せて、言葉にしておこうと思います。

 第一。

降りしきれ 雨よ 降りしきれ

すべて 許しあうものの上に

また 許しあえぬものの上に

高野喜久雄 合唱組曲水のいのち』第1曲『雨よ』より)

 クラブ活動の場は、学校の中で、最も自主的な活動を展開できる場の一つでしょう。特に「自分たちのクラブ」という形で生徒であるあなたたち自身が、学校の他の要素と比べても、より強くその自主活動性を意識できるようなところがあります。「許しあうもの」同士、クラブ活動の仲間が結束できる。しかし、その結束が強いほど、自分たち以外の存在とはますます互いに「許しあえぬもの」になる。青春の誤解とも呼ぶべき、陥りやすい罠ではないでしょうか。「自分たちの」という帰属意識で乗り切ることが正当とは限らない。どうかこの『雨よ』の一節を唱え、矛盾を見つめる静かな心を育んでほしい。

 第二。本来、芸術・音楽の営みとは、それ自体が目的で営まれるという以外の在り方はありえない。ましてそれを、学校的価値観の下での集団活動達成─「みんなで力を合わせて一つの目標に向かって一生懸命がんばる」そしてそれは「つらいこともあったが充実した青春の思い出」となる─という目的のダシにすることなど、私は一指揮者としてできようはずがない。しかし、その一方でクラブ顧問としての私は、その一番したくない・できるはずのないことを最前線で実践している。初心者に近い低学年の子が、合奏で自分が間違えると自分で楽しそうに笑う。そうだ、「楽しい」という気持ちの、そのはるか遠くであるが確かにその方向に、音楽芸術の感動の世界があるのだ。君もいつしか「楽しむ」ことを忘れ「がんばる」ようになってしまうか?芸術の営みからクラブ活動へ、堕してしまうのか?