わかる人,わかる時,わかる可能性 (5)
1998年
大学受験浪人の時でした。当時通っていた予備校の英語講師・表三郎(おもてさぶろう)先生が、授業中に居眠りをしている受講生を見つけて言った言葉です。──「彼を起こしてあげなさい。…気をつけないと風邪を引くんだよ、冷房の効いた部屋で寝ちゃうとね…。」──先生がその優れた授業をふと中断して穏やかな口調でそう言ったのを聞いて僕は何だか感動したのを覚えています。小・中・高を通じて、居眠る生徒に表先生のように声をかけた教師は皆無でした。「厳しく叱る」「やさしく注意する」「放っておく」…どれであっても「授業中の居眠り=倫理的悪」という軸は変わらなかったのです。教師(=人の前から上からものを言う者)の最もヒューマンな言動に僕が出会った場所が外ならぬ予備校(=学校と名のつく中で人間関係が最もクールであるはずの場所)であった、という逆説として、今も印象に残っている出来事です。誤用を怖れず哲学の語を用いれば、表先生の言動は学校的価値観の「脱構築」だったといえるのではないでしょうか。
この学校的価値観は吹奏楽のクラブ活動では「下手なこと=悪」という形で表れ、コンクールがその固定軸の存続を保証します。賞与を念頭においた“公平な評価軸”では、音色の個性・変化のある造型・鮮烈で彫りの深い表現といった、音楽演奏を彩るための大切な要素は、それらに鈍感な多くの人間の理解が得られないために、すべてマイナスにしか換算できなくなります。ところが、正確な音程・揃った「縦の線(音の出の同時性)」・運指/口型/鳴り具合等楽器固有の技術、といった要素の優劣なら、誰でも簡単に判断がつくので、これらのプラス点で序列が決まる。「公平な審査」の鋳型はこうしてできるのです。せっかく多くの団体の演奏が集まるのだから、審査員各個人が鑑賞者として感動した演奏(無ければ無かったと言う)を理由付きで指し示し、意見が割れたら割れたまま発表する、という風にせめてできないものでしょうか。(ただ、技術発達の途上である人(ここでは生徒)自身が、音程や縦の線等、自分の背丈に合った評価軸を意識しつつ向上していくことには、ひとまず異論はありません。)
表先生の言葉をもう一つ。「(予備校の)授業は(教師ばかりが話して)一方的だと言われたりするけど、そうではないね。僕の発話に対し、諸君はそれぞれ“そうか”とか“?ほんとかな”とか頭の中で絶えず考え、応答している。つまり対話があるわけだ。その点では読書も同じだよ。受講も読書も決して単なる受け身の行為ではない。」
生来人見知りの照れ屋であることも手伝ってか、彼女たちとの個人的なコミュニケーション・ふれあいといったものはあまりありません。まさに予備校の授業にも似て1対多で顔を合わせる合奏練習の時が、僕と彼女たちとのほとんど唯一の“対話の場”なのです。楽譜に黙々と僕の指示を書き込む姿を見て時にそら恐ろしく感じることもあるのですが、それは僕の方がまだ表先生ほど達観できていないからなのでしょう。ここには人対人の対話が必ずやあるはずです。が、「わかり合えている」と信じ込むことは対話の停止・馴れ合いの開始になるだけでしょう。そうではなく、「わかっているんだろう」「わかっている人もいる」「わかっている時もある」「わかる可能性を秘めている」という期待と希望を持つことこそが対話の原動力となるのです。