音楽の編み物

シューチョのブログ

「活性フィクション」の定義 試案

「活性フィクション」は私の造語です…と言いながら、明確に定義したことはないまま用いてきました。定義文はできるだけ簡潔明瞭に書きたいと思いつつそれがうまくできないのでそのまま過ごして来たのです。が、今回ふと、まとまらないままでもいいからともかく書いてみておこうと思い立ちました。──


活性フィクションとは、諸設定(→注1)が、まさにそれがそう設定されたことによって、「この〇〇のような設定であれば一つの必然として……ということになっていく」という程で優れたドラマが生まれてくる様子、また、そのようであると読み取れる台詞・場面のことを指します。ただし、伏線概念と分類分離対立する概念ではなく、例えば、「活性フィクションによる場面展開が為される中で一つの手法として伏線が張られる」ことなどはありえます。さらにはそういう設定によって、登場人物や物語がオートポイエーシス的に“一人歩き”を始め、作り手自身も意図しなかった(と視聴上は判断できる)ことでありながら、作品世界としての本質が新たに生み出されている、といったこともありえます。視聴上の判断としました。つまり、そういう見え方を含めて実は作り手が周到に予定構築した、という場合も含めてよいと思っています。あるいは、作者の意図かどうかは重視しない、とは言えます。むしろ作者の意図ではないからこそすごいと言える場合がある。


注1…「プロット」と言ってもいいのかもしれませんが、意味を限定せず少しでも広く取れるように単に「設定」としました。


活性フィクションの例

・『シェフは名探偵』の主人公・三舟が、その優れたシェフとしての知識や観点を持っているからこその名推理を展開する。

・『ウルトラセブン』「超兵器R1号」で、ダンが元から宇宙人(=セブン)であるからこそ、超兵器の保持の是非を巡って隊員たちと意見が対立したり、自分だけがその実験を阻止し得たのに阻止できなかった…と悔いたりする。

・『ウルトラマン』作品世界内で、元は別人のハヤタとウルトラマンが「ほんとうに/実際に」一心同体となっているという“事実”があるからこそ、最終話でのウルトラマンの「私の体は私一人のものではない」という言葉が“比喩ではない真のリアリティー”を伴って響く。


フィクション不活性の例

・(すべてではもちろんないにせよ)スポーツ青春ものの多くは、競技によって異なる本質の描写に注力するよりも、「仲間」「恋愛」「対立」「成長」「みんなで力を合わせる」「最後に勝つ」等々に主眼が置かれるため、物語や感動の様相や質が似たり寄ったりかつ通り一遍になる。競技の種類自体は何でもよいことになり、その具体性はほとんど活かされない。つまり不活性ということ。同種の不活性は、スポーツもの以外の、特撮/アニメーションの「ヒーロー物」「格闘・戦闘物」にも多く見られる。フィクション作劇とは直接関係ないが、高校生のクラブ活動発揮の様々な場を「〇〇部の甲子園」とかすぐに言って賑やかすこともこれに通じる。本来は野球とその〇〇とがまったく異なるものであるという事実の方が本質的で重要なはずなのに、一括りにし、転倒してしまう。


演劇論・映画論・TVドラマ論に詳しい方へ。私の「活性フィクション」に該当する類似の概念・用語が既にあるぞ、など何かご存知でしたらぜひご教示頂きたく、どうぞよろしくお願いします。