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小平邦彦『怠け数学者の記』

小平邦彦『怠け数学者の記』
岩波現代文庫、2000年)


去年、『数の発明』という本が出ました。『ピダハン』の著者ダニエル・エヴェレットを父に持つケイレブ・エヴェレットの著作だとか。図書館で一度借りたもののほぼ未読のまま返却(頭掻)、そのため内容への批判にはなりようがないしその意図もありませんが…タイトルだけを見る限り「発明」というのが引っかかったのです。


他にも、すぐには出典等を示せないのですが、数や数学を人類─人間の発明・創造・創作だとしている著述や発言がいくつかあったこと、しかもそのうちには数学者も(複数?)いたことは覚えていて、それらを見聞きする度に「えーぇ、それはちゃうんちゃうん?…」と訝しがりつつも、反対の見解つまり私と類似の見解にはっきりと出会ったことがない気もして、どうにも首を傾げつつ過ごしてきました。


その「私(と類似)の見解」について、例えば


「イルカはイルカの身体で数学している」
「ひまわりや松ぼっくり自身が黄金比を“知っている”」


とか表現してみるのですが、うまく言葉にできているとはとても言い難く…。この2つのうちでは後者の方がまだしも少し伝わると思いますがどうでしょう。


ところが、先日ついに、私の思い描きをみごとに簡潔に表現してくれている文章を「発見」、数年越しの大きな溜飲を下げることができました。

 

 数学の対象を自然現象の一部と考えるのはずいぶん乱暴であると言われるかもしれない。しかし数学的現象が物理現象と同様な厳然とした実在であることは、数学者が新しい定理を証明したとき、定理を「発明した」と言わず「発見した」というところに端的にあらわれていると思う。私もいくつか新しい定理を証明したが、決して定理を自分で考え出したとは思わない。前からそこにあった定理をたまたま私が見つけたのに過ぎないという感じがするのである。
──小平邦彦『怠け数学者の記』(岩波現代文庫、2000年)8〜9頁──


この「発見」を受け、以前仕入れた『解析入門』(岩波講座基礎数学の分冊版・古書)にも改めて目を通してみると、ムム、その「はじめに」にも同様のことが書かれていました(苦笑)。

 

現代の数学は形式主義の影響を強く受けていて,数学は公理的に構成された論証の体系であるという点が強調されるが,私の見る所では,数学は,物理学が物理的現象を記述しているのと同様な意味で,実在する数学的現象を記述しているのであって,数学を理解するにはその数学的現象の感覚的なイメージを明確に把握することが大切である.
──小平邦彦『解析入門Ⅰ』(岩波書店、1975年)1頁──


ということで、これ以上望めない強ーい味方を得て、ようやくこの話題について書いてみる気になったわけです。


上記の私の卑近な?言葉に引きつけて言うと、フィボナッチ数列黄金比といった「数学的現象」が厳然として実在している、ということです。


とはいえ小平先生は20世紀の数学者、『怠け数学者の記』は2000年とは文庫化の年であって元は1969年初出の文章、『解析入門』は1975年ですから、すでに50年前後経過しているわけで、現在ではこのような捉え方の方がやはり希少になってきてしまっているのか、それはわかりません…。


それに、簡単のため「発明か発見か」と単純に二分して話を始めましたが、例えば先の私の例が小平先生の言う「数学的現象」と同等のものであるという保証があるわけでもなく、実際にはグラデーション的な様々な考えの分布があり、それぞれ吟味する必要があるのでしょう。または、今はこれ以上は控えますが、何を指して「数学」と呼ぶのかにまで話が及ぶと、さらに込み入ってくるのでしょう。