音楽の編み物

シューチョのブログ

カイマナふぁみりー・タイキさん「故郷」

ギター1本による、しかも歌わない、つまり歌詞のない、「故郷」。

 

「歌わない」って、「歌唱はしない」という意味です。もちろんのこと、彼はギター独奏という器楽で「歌って」いるのです。

 

開始から数秒で引き込まれ、顔の奥からぐっと熱いものがこみ上げてきます。
普段のカイマナふぁみりー3人のギター演奏といえば、何といっても多く細かい圧倒的物量の音符がめくるめくスピードで迫ってくるところが魅力なんですが、このタイキさんの「故郷」は、それとはまた真逆の味わいです。

 

冒頭、前奏的に旋律のみがゆっくりと弾かれます。染み入る撥弦音の単音…、和声がなく対旋律がなくても、一音一音に込められた魂がそれらを繋げていき、けっして間延びすることがありません。悠久の持続、フォルム、つながりの空間、宇宙…。

 

その後の、主音のシンコペーションに乗せて、3音4音の半音不協和がたゆたい、また9th(上2度)へ係留する、前奏間奏の響き。伴奏としてはよくある音型ながら、タイキさんのそれは、繊細な織物の編まれていく過程を少しのスローモーションで見るような動きとして伝わってくる。湖面に広がり光る波紋の水を手で掬うように…静かに、優しく、深く。

 

そして、3コーラス目の前半で再び半無伴奏的部分にさしかかる。ここがクライマックスですね。回帰、回想、郷愁。情緒/情感の美と、形式/構造の美。

 

若い彼の真摯なほんものの芸術行為を目の当たりにし、こちらは同じく音楽演奏に携わる者として改めて襟を正すのみです(礼)。


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ワンダ・ランドフスカのバッハ、モーツァルト

ワンダ・ランドフスカ。先日ふと,Youtubeの「平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番の聴き比べ」という動画で知って、驚き。すっかり魅了されました。通のみなさんには「知らんかったんかい!」とつっこまれそうですが(頭掻)…さっそく入手。オーケストラと違って室内楽や独奏は音の分離の問題が少ないので、こうした古い録音でも比較的聴きやすいのも幸いしますね。


特にバッハの録音は、どこにマイクを仕込んだのか、まるでチェンバロの中にいるような聴感。ランドフスカのタッチと造型が純粋に直に伝わってくる感触があって、実際の“生の音”に近づける現代の録音では却って味わえない類の良さがあると受け取っています。


モーツァルトK.333の冒頭からのアゴーギクもすごい。いえ、私も(誰もが?)思いつく一つの表現なんですが、まさかほんとうにやるとは…。全体を通じて遅く静かで寂しげで、そこここでルバートがかかり、提示部終わりの左手が装飾めいたり(バロック的?)と、貶すなら「甘く弱々しい」「モーツァルトでない」ということになるのでしょうが…。私にとっては、どの場面も、これまで愛聴してきたリリー・クラウスハイドシェック、クリーンと比べても、最も身近な表現で、自分が弾いているような感じで聴けます。

岡本久『最大最小の物語』

岡本久『最大最小の物語 関数を通して自然の原理を理解する』(サイエンス社、2019年)

 

連続的な最大最小問題は微積分学と密接に結びついている.[……]最大最小問題は自然の原理を理解するために不可欠であるし,過去の多くの数学者が心血を注いで解決しようとしてきたものである.[……]ただ,最大最小問題のおもしろみを味わうためには,大学受験に必要最小限の(あるいは単位をとるために最低限の)知識を要領よく覚えるという態度を放棄せねばならない.ある人にとってみれば,本書のような題材は道草であろう.しかし,道草も時に必要であると割り切って本書を読んでいただきたい.
===(序文より)===

 

掛谷宗一(1886─1947)は日本の数学者で,多項式の根に関する掛谷の定理で有名である.しかし,掛谷の問題を思いついたことでも著名である.[……]「長さ1の線分を平面内のある領域内で動かして,両端が入れ替わるようにせよ.そのような領域で面積最小のものは何か?」
 この領域を凸領域に限ってしまうと,1辺の長さが2/√3 の正三角形が解である.しかし,そのような制限を取り払ってしまえば,正三角形は最小ではない.デルトイドの方が小さい.
[……]
 多くの人々はデルトイドが最小を与えると思っていたらしい.しかし,この予想は正しくなかった.[……]重要なことは,一見正しそうに見えることでも実は正しくないことがあることである.
===(91,92頁)===

 

注:半径Rの大円に半径rの小円を内接させながら滑らないように転がしたときの小円周上の1点の描く軌跡=ハイポサイクロイドのうち、R : r = 3 : 1 であるものをデルトイドといい、正三角形の各辺を内側に弓なりに曲げた形をしています。

 

[……]数学の教師も応用の世界や数学史にもっと慣れ親しむ必要があろう.[……]面倒だと言わずに,教師自ら数学の歴史を紐解けば最大最小の意味付けあるいは動機が見えてくる。
===(後書きより)=== 

 

古代ギリシャガリレイケプラーフェルマーオイラー和算…と数学史を辿りつつ、主として古典的/典型的な問題が本文中に約50題??、各章末にもそれらの類題の演習問題が計50弱(未読??)掲載されています。そのほとんどが高校数学IIIまでの予備知識で理解でき、数学II微分で解決できる問題もいくつかあります。加えて変分法にも入門できます。著者の語り口を講義で聴くような流暢な解説によって、ほぼノンストップで読み進めていけました。
200ページに満たない薄さながら、数学者の本気の呼びかけを実感できる本でした。

 

ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』

ジョセフ・ラズ/森村進  奥野久美恵  訳『価値があるとはどのようなことか』(ちくま学芸文庫、2022年)

 

私が思うに、価値の普遍性テーゼと価値と理由との結び付きとが、それ自体として、実践的合理性において最大化を志向する態度、つまり〈すべてを考慮に入れた上での合理的な態度とは、すべての可能な選択肢のうち期待値が最大となる行為を選択することである〉という見解への加担を必然としている、と考えることは間違いである。
===(16頁)===

 

経済的価値の最大化や教育機会の促進・最大化、人々の寿命を伸ばす確率の最大化等を語ることには意味があるかもしれない。しかしもし私の選択が、ヤナーチェクのオペラ『イェヌーファ』のすばらしい公演を観ること、哲学者ジェラルド・コーエンの新刊を読むこと、ダンスパーティーに参加することの間での選択であったとき、どの選択肢が最も善や価値を促進し、あるいは生み出し、どれが善を最大化するのかと自分自身に問いかけるのは意味をなさないように思われる。
===(16─17頁)===

 

 前章では、価値の普遍性に対する疑念を生み出す源泉の一つを検討しました。大雑把に言えばこういうことでした。──私たちにとって最も重要なものの中には、対象が唯一であるために唯一固有である愛着が含まれると多くの人は信じている。そのような愛着の価値もまた、唯一固有だ。そうした愛着に価値があるのは、そうした対象への愛着であるがゆえだ。対象が唯一固有なので、その価値もまた唯一固有だ。しかし、価値の普遍性は、価値が唯一固有であるというテーゼと両立しないではないか──。こういった反駁です。
===(57頁)===

 

原題は Value, Respect, and Attachment = 価値・尊重・愛着(訳者があとがきで示している直訳)。


普遍的な価値(Value)と、私的な「唯一固有」の愛着(Attachment)との関連。
ベートーヴェン第5冒頭の動機を「これはベートーヴェンのこぼした涙の粒である」として、弓を飛ばさずに撫でて弾く、おそらく世界で?唯一固有の表現。それは間違いなのか。間違いではないにせよ、普遍的ではないのか。だとして、「当人はそれを普遍的と捉えるからこそそうする」こととどう整合するのか。同時にまた「自分の感じ信じるところに正直であろうとしてそうする」が、それが個人的な“感情”“嗜好”に過ぎず、だから普遍的な価値を持たないのか。逆に、仮に(仮に)こちらが普遍的だとして、では、「運命が扉を叩く」スタッカートの強奏の方が歴史的な誤りで、こちらの採る表現こそが同曲“解釈”のパラダイム転換を成しえたのか(笑)。


あえて具体的で細か過ぎる一例だけに留めましたが、演奏表現に携わる者としては、日々、常に、実践の最前線最先端において普遍性と固有性の問題に突き当たり向き合っているわけです。


そうした私の日頃の問題意識と、「規範理論・倫理学・政治哲学など多岐にわたる分野でも多くの業績を持っている(訳者あとがき、280頁)」法哲学者の著作が、何についてどこまで繋がってくるのかまだわかりません。が、少なくとも(訳書の方の)書名のような問いを主題に掲げた本は、これまで私の見聞き知る範囲にはありそうでなかったのでした。また、ちくま学芸文庫愛好家?としても、当文庫のために訳し下ろされた新刊で読めるというのは嬉しいのです。

 

『キネマ旬報』の『シン・ウルトラマン』特集

雑誌『キネマ旬報』最新号の『シン・ウルトラマン』特集に、斎藤工さんのインタビューが掲載されていました。


彼がシュタイナー学校に通っていたことは有名?で、以前から私も知っていましたが──
映像の仕事をしていた父親が『ウルトラマンタロウ』の制作に関わっていたが、その頃も、家にはテレビもなく、『ウルトラマン』も見ていない、玩具も自分で創作する、が、初代ウルトラマンと怪獣数体のフィギュアだけはあって、それらが「唯一形のある玩具」だったそうです。

 

「[……]幼少期の僕にとっての“遊び”という名の創作活動は、ウルトラマンと対話する時間だったんです。
 僕も意識していなかったのですが、ルドルフ・シュタイナーという人は、教育、農業や医療などさまざまな分野において活動し、最後は“感覚的な宇宙の真理”について言及しながら亡くなった人なんです。その思想は、ウルトラマンのいる世界線ともつながっているように思えるんですね……。
 これはすごく個人的な感覚の話になるんですが、俳優になってこの世界に入る前の段階から、もしかしたら僕は『ここ』に向かっていたのかもしれない。そんな物語が自分の中でつながった気がしているんです」
──キネマ旬報 2022年5月 上・下旬合併号、13頁──


彼がここで語る言葉には、シュタイナー教育やシュタイナーの思想からの(と見て取れる)語彙が、そこここに散りばめられ、連なっているように私には思えます。
元々は切通理作さんや小林晋一郎さんらのエッセイが目当てでした。そちらはこれから。楽しみです。

 

「活性フィクション」の定義 試案

「活性フィクション」は私の造語です…と言いながら、明確に定義したことはないまま用いてきました。定義文はできるだけ簡潔明瞭に書きたいと思いつつそれがうまくできないのでそのまま過ごして来たのです。が、今回ふと、まとまらないままでもいいからともかく書いてみておこうと思い立ちました。──


活性フィクションとは、諸設定(→注1)が、まさにそれがそう設定されたことによって、「この〇〇のような設定であれば一つの必然として……ということになっていく」という程で優れたドラマが生まれてくる様子、また、そのようであると読み取れる台詞・場面のことを指します。ただし、伏線概念と分類分離対立する概念ではなく、例えば、「活性フィクションによる場面展開が為される中で一つの手法として伏線が張られる」ことなどはありえます。さらにはそういう設定によって、登場人物や物語がオートポイエーシス的に“一人歩き”を始め、作り手自身も意図しなかった(と視聴上は判断できる)ことでありながら、作品世界としての本質が新たに生み出されている、といったこともありえます。視聴上の判断としました。つまり、そういう見え方を含めて実は作り手が周到に予定構築した、という場合も含めてよいと思っています。あるいは、作者の意図かどうかは重視しない、とは言えます。むしろ作者の意図ではないからこそすごいと言える場合がある。


注1…「プロット」と言ってもいいのかもしれませんが、意味を限定せず少しでも広く取れるように単に「設定」としました。


活性フィクションの例

・『シェフは名探偵』の主人公・三舟が、その優れたシェフとしての知識や観点を持っているからこその名推理を展開する。

・『ウルトラセブン』「超兵器R1号」で、ダンが元から宇宙人(=セブン)であるからこそ、超兵器の保持の是非を巡って隊員たちと意見が対立したり、自分だけがその実験を阻止し得たのに阻止できなかった…と悔いたりする。

・『ウルトラマン』作品世界内で、元は別人のハヤタとウルトラマンが「ほんとうに/実際に」一心同体となっているという“事実”があるからこそ、最終話でのウルトラマンの「私の体は私一人のものではない」という言葉が“比喩ではない真のリアリティー”を伴って響く。


フィクション不活性の例

・(すべてではもちろんないにせよ)スポーツ青春ものの多くは、競技によって異なる本質の描写に注力するよりも、「仲間」「恋愛」「対立」「成長」「みんなで力を合わせる」「最後に勝つ」等々に主眼が置かれるため、物語や感動の様相や質が似たり寄ったりかつ通り一遍になる。競技の種類自体は何でもよいことになり、その具体性はほとんど活かされない。つまり不活性ということ。同種の不活性は、スポーツもの以外の、特撮/アニメーションの「ヒーロー物」「格闘・戦闘物」にも多く見られる。フィクション作劇とは直接関係ないが、高校生のクラブ活動発揮の様々な場を「〇〇部の甲子園」とかすぐに言って賑やかすこともこれに通じる。本来は野球とその〇〇とがまったく異なるものであるという事実の方が本質的で重要なはずなのに、一括りにし、転倒してしまう。


演劇論・映画論・TVドラマ論に詳しい方へ。私の「活性フィクション」に該当する類似の概念・用語が既にあるぞ、など何かご存知でしたらぜひご教示頂きたく、どうぞよろしくお願いします。

 

小平邦彦『怠け数学者の記』

小平邦彦『怠け数学者の記』
岩波現代文庫、2000年)


去年、『数の発明』という本が出ました。『ピダハン』の著者ダニエル・エヴェレットを父に持つケイレブ・エヴェレットの著作だとか。図書館で一度借りたもののほぼ未読のまま返却(頭掻)、そのため内容への批判にはなりようがないしその意図もありませんが…タイトルだけを見る限り「発明」というのが引っかかったのです。


他にも、すぐには出典等を示せないのですが、数や数学を人類─人間の発明・創造・創作だとしている著述や発言がいくつかあったこと、しかもそのうちには数学者も(複数?)いたことは覚えていて、それらを見聞きする度に「えーぇ、それはちゃうんちゃうん?…」と訝しがりつつも、反対の見解つまり私と類似の見解にはっきりと出会ったことがない気もして、どうにも首を傾げつつ過ごしてきました。


その「私(と類似)の見解」について、例えば


「イルカはイルカの身体で数学している」
「ひまわりや松ぼっくり自身が黄金比を“知っている”」


とか表現してみるのですが、うまく言葉にできているとはとても言い難く…。この2つのうちでは後者の方がまだしも少し伝わると思いますがどうでしょう。


ところが、先日ついに、私の思い描きをみごとに簡潔に表現してくれている文章を「発見」、数年越しの大きな溜飲を下げることができました。

 

 数学の対象を自然現象の一部と考えるのはずいぶん乱暴であると言われるかもしれない。しかし数学的現象が物理現象と同様な厳然とした実在であることは、数学者が新しい定理を証明したとき、定理を「発明した」と言わず「発見した」というところに端的にあらわれていると思う。私もいくつか新しい定理を証明したが、決して定理を自分で考え出したとは思わない。前からそこにあった定理をたまたま私が見つけたのに過ぎないという感じがするのである。
──小平邦彦『怠け数学者の記』(岩波現代文庫、2000年)8〜9頁──


この「発見」を受け、以前仕入れた『解析入門』(岩波講座基礎数学の分冊版・古書)にも改めて目を通してみると、ムム、その「はじめに」にも同様のことが書かれていました(苦笑)。

 

現代の数学は形式主義の影響を強く受けていて,数学は公理的に構成された論証の体系であるという点が強調されるが,私の見る所では,数学は,物理学が物理的現象を記述しているのと同様な意味で,実在する数学的現象を記述しているのであって,数学を理解するにはその数学的現象の感覚的なイメージを明確に把握することが大切である.
──小平邦彦『解析入門Ⅰ』(岩波書店、1975年)1頁──


ということで、これ以上望めない強ーい味方を得て、ようやくこの話題について書いてみる気になったわけです。


上記の私の卑近な?言葉に引きつけて言うと、フィボナッチ数列黄金比といった「数学的現象」が厳然として実在している、ということです。


とはいえ小平先生は20世紀の数学者、『怠け数学者の記』は2000年とは文庫化の年であって元は1969年初出の文章、『解析入門』は1975年ですから、すでに50年前後経過しているわけで、現在ではこのような捉え方の方がやはり希少になってきてしまっているのか、それはわかりません…。


それに、簡単のため「発明か発見か」と単純に二分して話を始めましたが、例えば先の私の例が小平先生の言う「数学的現象」と同等のものであるという保証があるわけでもなく、実際にはグラデーション的な様々な考えの分布があり、それぞれ吟味する必要があるのでしょう。または、今はこれ以上は控えますが、何を指して「数学」と呼ぶのかにまで話が及ぶと、さらに込み入ってくるのでしょう。