音楽の編み物

シューチョのブログ

三連連唱の調べ[第1回]序説

日本のいわゆる歌謡曲─ポップスについて、その1拍の音符の音価を仮に4分音符に統一することにしましょう(実際の楽譜もほとんどがそうだろうと予測します)。すると、基本となるリズムについて、1拍中に入る8分音符が2つではなく3つ、すなわち三連符であるような曲があります。例えば、

 

精霊流しさだまさし、グレープ)

白いブランコ(小平ほなみ/菅原進、ビリー・バンバン

心のこり(なかにし礼中村泰士細川たかし

 

などです。これらを「三連連唱の歌」と称することにしましょう。こうした三連連唱の歌は、全体から見れば数は少ないとはいえ、上記の他にもまだまだありますし、これらよりもさらに“三連連唱の度合いが高い”歌もあります。そうして想起・収集していくと、三連連唱の歌には「よくできた曲」が多いと気づきます。もちろん、ある曲が「よくできた曲」かどうかの判断は私の主観のみに依っているんですが、少なくともその限りにおいて、日本の、すなわち日本語の歌詞が歌われる三連連唱の歌は、優れた曲が揃っているといえそうです。このことは以前から私の中に問題意識として浮上していまして、この度、改めて「よくできた」三連連唱の歌を次々と紹介してみたい、そこに蛇足的解説なども加えてみたい、と思い立ちました。

 

海外(由来)の三連連唱の歌もあるようです。例えば

 

モーツァルトの子守唄
フォスター「夢路より」(卵からプロテア)
「キャッツ」より「メモリー

 

がそうですが、どれもテンポが遅いため、日本の多くの三連連唱歌のような「力強く畳み掛けるような感じ」はありません。海外の例をくまなく調べたわけではありませんが、それでも確実に言えることは、日本語(の歌詞)は、英語や他のヨーロッパ系言語(の歌詞)よりも断然、「速いテンポの三連連唱でパワフルに畳み掛ける」のに適している、ということです。

 

また、「三連」と聞いて例えば「あぁ、スウィングのことね」「伴奏が“三連系”か」と反応されるとすればそれはいささか短絡なのです。例えば外来の「雨にぬれても」や「アンチェインド・メロディー」は私のいう「三連連唱の歌」には入りません。「オー!シャンゼリゼ」なら“準”三連連唱、「オンリー・ユー」もぎりぎり“準”に認定されます。日本の歌でも「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」「虹と雪のバラード」「学園天国」などはいずれも伴奏がスウィングまたは三連符というだけで三連連唱ではありません。「男はつらいよ」ならギリギリの線上か…といったところです。これらの曲と初めに挙げた3曲との違い、だいたい察してもらえると思います。が、その類別をちゃんと行うにはやはり「何を以って三連連唱とするのか」ということについてある程度精密な定義が必要になってきます。そこで、次回からはまず、「三連連唱の歌」を論じるための新用語を定義していこうと思います。

浅田美代子「赤い風船」幻想

浅田美代子「赤い風船」が出てきたとき、

 

浅田美代子は歌が下手だ

 

というイメージがどこからも流布された。私の家族も「もうちょっと何とかならないか…」と苦笑しつつTVを見ていて、小学生の私自身もそのとき「よくこれで歌を出したなぁ」という印象を持ったのを覚えている。

 

私がいわゆる歌謡曲に興味関心を強く示していた時期は10代前半の数年だけだったので、以後、このことについて気にとめることはなかった。

 

この「赤い風船幻想(問題)」が私の中で再燃するのは、ずっと後の、個人アイドル全盛期を過ぎ、若い芸能人がアイドルでなく歌手またはアーティストを標榜して次々売り出されるようになった時代が到来してからであった。

 

赤い風船幻想と題して何を言いたいか大方予測されたことと思う。

 

──昔の女性アイドルの歌は下手だったが、やはり可愛らしく、その下手さ自体にも味わいがあり、昨今の歌手たちよりも魅力的な部分がやはりある、ということを再認識した。──

 

というところかもしれない。確かに、これが「赤い風船幻想」である。実は私も、“再燃”当初はこのように考えた。だが、今は考えが進み、実はこの認識こそがまさに幻想だと言いたい。つまり

 

下手ではないものを下手と思い込み、そのことを支持や贔屓(または不支持やマイナス評)の理由にする、という転倒がある

 

ということである。

 

幸い、現在は、その気になれば手軽に当時の映像音声資料に当たれる(を拾える)。この短い夏休みの中の1日、ふと思い立って、改めて浅田自身の当時の映像などに接してみた。その中で、『時間ですよ』で共演した天地真理、カバーをレコーディングした石川さゆり森昌子のものも聴いた。そうしてわかったことは、同曲の歌唱をあえて比較採点すれば、浅田は少なくともこの4人中では天地に次ぐ2番目であるということ。石川も森も、跳躍先の本来の高音にしっかり飛ばない場面があり、あれどうした?と肩透かしを受けた(もちろん、そういう歌唱法は、一般には、意図してなされることもありかつそれこそが巧さとなることもあるが…)。対して浅田は、少なくとも私が接したいくつかの映像(ドラマ内と歌謡番組の両方を含む)において音楽の三要素すべてにおいてこの持ち歌をほぼ完璧にこなしている。つまり今となっては

 

浅田美代子は下手だという固定観念そのものが、その作用の否定性肯定性によらず、作られた幻想であった

 

という結論に私は近づいている。もちろんそうなった理由はあろう。それは

 

主にファルセットの不安定感

 

によるのだろう。浅田はこの曲の大部分を(おそらく)ファルセットで歌っている。専門的訓練を受けずに出す裏声が安定して伸びのあるものになろうはずはなく、「今にも音を外しそう」な絶妙さでずっと進むのも事実である。そこを捉えて多くの人が「つい」下手だ、音を外している、と聞いてしまったと思われる。

 

まさにそれこそが下手ということ(の少なくとも一種)ではないか

 

と返されるかもしれない。確かに。それでも、よく聴くと、

 

浅田はほとんど、音程自体は、今にも外しそうではあるが、外していないのである。「外したかのように聞こえる」だけである。

 

ほとんどということは少しは外れているのではないか

 

とも訝しがられよう。それはそうで、私にもごく1、2箇所は確認できた。だが、現代の“ヴォーカリスト”たちを見よ。浅田とは逆に、音が外れまくっているように私には聴こえる。それでいてアーティスト/ヴォーカリストを名乗り、人によってはカリスマ化している。そちらの欺瞞性の方が、浅田のようなアイドルを「下手でもいい」と愛でることに比べても、よほど問題ではないのか。

 

浅田美代子は、まさか、巧くはない。その歌に対する“非専門性”について、改めて力説するまでもない。しかし、“非専門の申し子”ではあっても、“下手の代名詞”ではない。けっして。そのような流布があるとすればそれは是正されるべきだ。浅田よりももっとずっと下手な人間が堂々と歌手を気取る時代に来ているという自覚の下に、特に強調するものである。

 

もとより浅田を贔屓する人たちの多くは、「下手だが魅力的」「下手なところがいい」という目の向け方をしておられるのだろう。彼女の歌唱にプラス価値を見出している点では賛同する。彼女の歌唱に独自の魅力があることを端から私も否定していない。私はそれに加え、下手でさえない、下手でさえなかったことに気づいた、と言っている。彼女の歌を(マイナス的に)下手の代名詞と認識していた人にも、彼女の(歌の)ファンの人にも、このことは報告しておきたいと思った次第である。


73'「赤い風船」 浅田美代子 堺正章 天地真理

『シン・ゴジラ』について

PC内のファイルを整理していたら、『シン・ゴジラ』鑑賞直後に書きかけていた拙文が出てきました。気の向くままわーっと書いたものの、けっきょく発表は控えたのでした。当時、巷が絶賛する中、大勢に屈した(頭掻)?屈したというより、あまりに周囲と自分が異なる気がして、何だか心が萎み、引っ込めてしまったのだと今の自分としては釈明しておきます。今見直せばまた評価が違ってくるかも、という留保も一応添えつつ(苦笑)、ほぼほぼ当時のまま投稿します。ネタバレありなのはもとよりで、その点ご容赦ご了承のほどを。
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高い評価では主に、人間ドラマをしっかり描いた所を○としているようだ。が、それはまるで転倒した見方のように思う。

リアリティーの追求に躍起になるあまり、ゴジラが完全にそのダシとなり、「現実的描写」に都合よくあてがわれる「虚構の使徒」になりさがってしまった。

本来、ゴジラそのものの存在を押し出してこそゴジラ映画であろう。初代はもちろん、一般評価が低い(からこそおそらく)昭和ゴジラジュブナイルゴジラも、当然ながらこの点だけは必ずクリアしていた。その後、平成ゴジラで、肝心のそこが弱められ、ゴジラ自身はvsキャラや人間ドラマのダシに回された。ミレニアムゴジラで久しぶりにゴジラ自体にスポットライトが当たる作りになり、溜飲が下がった。「ミレニアム」「×メガギラス」は傑作となった。

 


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それにしても、ゴジラで描くリアルといったら、政府と自衛隊を詳細に描くことしかないのか。冒頭から延々と続く政界風刺には心底がっかりした。それをゴジラだからこそできると思っているのか、あまりにもくど過ぎる。

自衛隊の扱いも、協力を依頼してそれが得られたものだから、それに見合った詳細を描かないといけないということになり、あそこまでになったのだろう。

政府も自衛隊も描かない(少なくとも背景的な存在とする)ことは可能である。描かなければいいだけのことである。ゴジラ映画では「ゴジラこそがリアリティー」である。そこさえ外さなければ、ゴジラと対峙する人間(たち)をどのような存在に設定するかは自由のはずであろう。

ところが「政府と自衛隊を描かなければリアリティーがない」と思い込んでしまう。

「リアリティーの追求」の末路は必ずこうなる。現代のほんものの災害や危機のように躍起になって描いた結果がこれか。

けっきょくクライマックスはゴジラの凍結という、これまた陳腐な始末の付け方。で、その人間ドラマ側の機が熟すのをゴジラが「待つ」ことになる。いや、「放射熱線等放出後いったんゴジラの活動が収まる」というフィクション自体はむしろ優れている。だが、それを、人間ドラマの都合にしか活かすことができていない。つまり、そのために与えられた設定のように見えてしまう。製作時の経緯がたとえその通りであったとしても、作品を視聴する者にそう感じさせてしまっては、本末転倒である。これを以て“フィクションの不活性”という。作品世界の中で、ゴジラのその特徴に気づき、それを掬い上げて活路を見出そうと登場人物たちが動いていく…、そこをダイナミックかつ繊細に描いてこそ、こうした「怪獣映画のフィクション」は活きるのである。

で、ゴジラを待たせている間に、つまり凍結作戦を準備する人間ドラマが詳細に描かれるのを見て、「…てことは、ゴジラはもう、さっきのあのシーンよりも派手には暴れないままで終わるんだろうな」と予測できてしまう。そうか、だから「ゴジラの山場はここね」という感じで、やたらと強く神々しく描いておいたんだな、と読めてしまう。

そのシーン=ゴジラの強く神々しい威力を示すシーンにしても、少しの違和感があり、何だったかを考えてみると、ゴジラに意志や自我が感じられない点であったことに気づく。ゴジラはこのシーンで、放射熱線を初め、火炎の形で地面にうつむいて吐く。その圧倒的な大量の火の吐き方は従来にない迫力があるにはあったが、何だか、単なる生物的な吐瀉のように見え、怒りや破壊の「意志」からそうしたとは見えなかった。その後の、全身からの放射能の閃光も、外界からの反応、しかも幾分植物的な、ウツボカズラの食虫時にすばやく葉?を閉じる動きと同種の反射的反応のように思えた。動物的な「意志の発露」には見えなかった。あのような光線の発し方は、キングギドラには似つかわしいが、ゴジラにはふさわしくない。ゴジラの意志的存在部分が矮小化されてしまった。

予測できて/読めてしまうからつまらないのではない。つまらないという直観が先にある。おもしろいときはおもしろい。予測/読みが当たってもはずれても、「やっぱりそう来たか!」「へぇー、そう来るか!」のいずれになったとしても、おもしろければおもしろいのである。今は、つまらないという予測が当たって、その通り、つまらない…、ということを嘆いている。

平成ゴジラ路線をより徹底させた。せっかくミレニアムゴジラで、ゴジラ予知ネットワークなどの民間を人間側の主役の一つに据えるなど、いったんそれとは異なる方向へのシフトが試みられたのに。そちらを継いで欲しかった。

と思ったら、パンフレットのスタッフ陣のコメントがぴったりその通りで、喜んでいいのか悲しんでいいのか…。

ゴジラの意匠は秀逸。これまでで初代に最も似ているように見え、時代の進んだ分、デザイン自体/造型自体は初代をさえ凌ぐ印象。ただ、フルタイムで赤身が見えるのは唯一のマイナス。普段は“ゴジラ色”の皮膚のみの方がなおよかった。

ゴジラの意匠は本来、無個性である。怪獣の元祖である。いわゆる二足歩行型で、背びれと尻尾がある、あの造型、あの色。ゴジラといえば誰もが等しく思い浮かべるその姿。それは怪獣存在の原型である。そこに「特徴」は、ない。まさに怪獣として「無特徴」であることがゴジラを形作っている。

しかし、そこにもミソがつく。あの、「第一形態」は何だ。背びれだけが見える状態がしばらく続き、「おや、もうゴジラが出るのか。早いなあ」──と思っていたら、目玉のでかい恐竜顔が現れ、妙な上半身の動きにも興ざめし、「何だ、ゴジラじゃなかったのか。後でこいつを追ってゴジラが現れる、ということかな」──と思っていると、いきなりムクムクと変態して「えっ、こいつがゴジラゴジラになる??」… 繰り返しになるが、「予測が裏切られること」自体がわるいのではない。予測外の答のその内容自体にガッカリしているのである。せっかくの素晴らしい最終意匠が台無しの展開。あんな妙ちきりんな生物がゴジラ(になる)だなんて…、ゴジラの威厳はどこへ行ってしまったんだ…と嘆きたくなった。メタモルフォーゼのアイデアはいいが、もう少しリファインできなかったのか…。それとも、私が嘆くようなそういった特徴こそを狙ったのか。おそらくそういうことなんだろうなあ…。

アニメ畑の監督だからという先入観もあるのかもしれないが、あのメタモルフォーゼのCGシーンはアニメそのものではないか。アニメのセルを重ねるイメージでできあがった感じ。第一形態の、あの河の激流のように急速に動く流体的な皮膚の表面は、ゴジラの変異前としてはあまりにも不自然に過ぎる。「もはや人知・想像が到底及ばないような存在である」と言い訳すれば何でも通るというのでは本末転倒である。怪獣/ゴジラというものは、単に「ありえないべらぼうな存在」ではなく「ありえないがありそうな(面を持つ)存在」であってこそのものであろう。

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柳宗悦『工藝の道』(やなぎむねよし、講談社学術文庫、2005年)

2009年から数年に渡って、何冊もの文庫本に収められた柳宗悦の幾多の著述に触れてから、柳の文章に自分の内面の思考と外向の実践とを支えられてきました。民藝にあやかって楽藝(['gakugei]:第1音節にアクセント)と称して、トリカード・ムジーカの活動を続けてきました。トリカード・ムジーカに限らず、指揮であれクラリネット吹奏であれ、どこかで何かを為すときはつねに一本の筋を意識しています。……といっても、柳の民藝と自分の音楽活動とが具体的にどうつながっているのか、うまく説明はできません。そもそも直接のメタファー/対応はどうにも成り立たない気がするし、まさに相反するようでもあるし、誤解しているかもしれないし、大きくずれているのかもしれません。それでも、何かが通じている、どこを向いて生きればいいのかを学んできた、というこちらからの勝手な確信だけは抱いてきました。

 

柳宗悦研究の第一人者である中見真理さんが、ご講演で(だったか著書『柳宗悦 時代と思想』の中でだったか)、「柳は金太郎飴のように同じことを繰り返すが、その筆力に引き込まれる」というような意味のことをおっしゃっていた(書かれていた)記憶がありますが、その通りで、「直観によって、無名の美を見出し、愛で、運動によってそれを守り、また広げる…」といったことが、ひたすら述べ続けられます。しかし読んでも読んでも飽きることはないのです。まさに著者本人が飽きずに書いているからでしょう。その奥にある抑えた情熱に、心惹かれ頭惹かれ続けてきたのです。

 

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「多」と離れることによって「孤」を守るべきではなく、「孤」を「多」の中に活かさねばならぬ。

===(182頁)===

 

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美を保証しない制度を正しい制度ということはできぬ。私たちは美の実現のために正しい社会を喚求する。

===(186頁)===

 

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美しい工藝には、いつも協団的美が潜む。離叛と憎悪との社会から、美が現れる機縁はない。美の背後には何らかの意味で愛の血が通う。神への愛、人への愛、自然への愛、正義への愛、仕事への愛、物への愛、かかるものを抹殺して美の獲得はない。

===(188頁)===

 

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私は私の思想をすべて私の直観と内省との上に築くことを余儀なくされた。その結果一般の見解との渡りがたい間隔が一層意識せられた。私が観じて最も美しいとするものは、かえって史家が最も無視する分野に属する。

===(207頁)===

 

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駒尺喜美『紫式部のメッセージ』(こましゃくきみ、朝日選書、1991年)

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駒尺喜美さんは祖母・小西綾と約50年連れ添った同居人。小西・駒尺は日本のフェミニズム黎明期を牽引したうちの二人で、一定以上の世代の女性学に携わる人ならまず知らない人はいないと信じます。綾は、単著は1冊も残さなかった運動家で、東京での勉強会の中心になったり大阪・広島などを講演して回ったりした、いわば女性学のソクラテス。駒尺さんはフェミニズム批評でいくつもの著作を残した文学研究者。

 

『結婚の向こう側』に引き込まれ、『魔女の論理』に戦慄し、『漱石という人』をガイドに『三四郎』『それから』『こころ』『行人』へ。そして、旧著の文庫化である『高村光太郎フェミニズム』に感動したのと同時期、確か『漱石という人』の次の新著として出版されたのが『紫式部のメッセージ』でした。熱く読み進んだ当時の感触がよみがえります。…が、詳しい内容は忘却(苦笑)。この機に再読しようと思います。

渡植彦太郎『仕事が暮らしをこわす ─使用価値の崩壊─』(とのうえひこたろう、農文協人間選書、1986年)

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就職して2年目の頃、農文協人間選書の渡植彦太郎「経済社会学」三部作『仕事が暮らしをこわす』『技術が労働をこわす』『学問が民衆知をこわす』をセットで購入、このうち、唯一読了できたのが本書です。キャッチィな書名から、何が書かれているのかだいたい想像がつく感じ(笑)…と思いきや、文章はかなり難解で読みづらかった記憶があります。見ると、当時の書き込みに、まるで英文読解の構文分析のような記号を使った跡さえ見られます。「ブルックナー交響曲のような文章」というメモも(→注)。読点の打ち方一つをみても、渡植先生の文章作法が、当時私が手本とした本多勝一さんの作文技術などとはかなり異なるものだった、ということでしょう。

 

注:===朝比奈隆は次のように語っている。『[……]ブルックナーの音楽は口下手な人の話のようなもので、それが巧言令色になったり、雄弁になったりしたら、かえって魅力がなくなってしまう』。本当にその通りだと思う。===宇野功芳「彼岸の音楽」より(『レコード芸術』1982年11月号第一特集「アントン・ブルックナー」、195頁)。

 

当時の自分の線引き箇所から、3つだけ引用しておきます。

 

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仕事集団はもともと同じく人間の集団ではあるが、人間の作り出した集団である。それは仕事のための組織体である。その中において人間が生きるために作られてはいない。これに対して生活集団は自然発生的であるがゆえに、当初から人間がその中で生きる場所である。

===28、29頁===

 

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私が労働の創造性という発想を抱くに至った経緯についてはすでにほかの機会にしばしば述べているので、ここに繰り返すことを避けるが、要するに、マルクスの「経・哲手稿」における疎外を脱却した際の労働からヒントを得て、これをかねて所蔵していた古陶会寧焼を座右に日夜眺めていてそれが芸術品として制作された結果でないのに、素晴らしい美しさを秘めていることに結び付け、さらに、柳宗悦の民芸美論が凡庸な農民、工人の手になる日用品に、「無事の美」の存することを主張するのに出会って、そこに労働の生産物に創造性の存在を見出さないではいられなくなったのである。

===100頁===

 

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その手始めとして、まず、西欧的合理性を本格的に学び、それを日本的に考え直す努力を惜しまない必要がある。今日までのところ、言葉だけでなく、思考法そのものまで、翻訳で済ましていた感がある。

===156頁===

 

2つ目の引用について。11年前、柳宗悦の著書に感銘を受け、彼の民藝運動の音楽版のようなものを漠然とながらも目指して、私はトリカード・ムジーカを「始動」しました。つまり「柳に出会った」のはその2009年だと自覚していました。が、そのさらに16年前にこうしてすでに「芽があった」(?苦笑)とは…。すっかり忘却していて、何だか可笑しく、でもちょっと嬉しい。また、これで一つの文!ということも注目。ただ、前述の読みづらさも多少あれど、1899年生まれ・本書発売当時86〜87歳の著者が、その場で語るような、それを(おそらく手書きで)自ら口述筆記していくような文体で、その考え・主旨がゆっくりじっくりとよく伝わってくるように思います。

ブルーノ・ワルター『音楽と演奏』(渡辺健 訳、音楽之友社、2013年新装復刊)

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『主題と変奏』『ブルーノ・ワルターの手紙』と並ぶ、ワルター三大翻訳書の一つ。大学生の頃、『音楽と演奏』だけが長らく品切となっていました。確か大学の図書館などにも見当たらず…。で、そうなると、『変奏』『手紙』を読み終えていたわけでもないのに、何としても読みたいという気持ちを抑えられず、某音楽系大学のピアノ科から大学オーケストラに来ていた(注)クラリネットの後輩の女の子にその大学の図書館で借りてもらい、それをこっそりまた借りして読みました(時効ということでお許しあれ…)。その後、インターネットの普及に伴い、古書を手に入れた時に改めて通読、そしてさらに時代が下って、没後50年記念をきっかけにようやく復刊し新品を入手。で、今また品切中。古書は出回っています。

  

注:大学オーケストラに、他大学の学生が入ってきて活動する、ということも珍しいことではなく、学年毎に数人はいました。

 

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だから、そのさいわたしが念頭においているのは、けっして音楽家ばかりではなく、音楽を愛し、音楽のなかで生き、音楽を、欠かせぬ魂の糧とするすべての人びとなのである。

===12頁===

 

この一文には、ワルターが、今、目の前でこの自分のために語ってくれているような感覚を覚えて嬉しくなり、また、背筋が伸びたものです。

 

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作品のもつ熱気・優美・憂愁・情熱を効果あらしめるには、演奏者自身の熱気・優美・憂愁・情熱をもってするほかに、いったいどうしたらよいであろうか? 演奏者は、自分自身が意味深くあればあるほど、作品を強力に再現することができる。[……]要するに──グスタフ・マーラーに関するわたしの著作のなかで指摘したように──偉大な創造的他者の作品にせまり入ってそれを広く告げ知らせることができるのは、意味深い再創造的な自我だけなのである。

===30頁===

 
特にオーケストラなどの場合、指揮者不在の演奏に必ず欠けているものが「指揮者の自我」です。さらにそれも、当然ながらただあるだけでは不十分(笑)で、「意味深い再創造的な」ものでなければならないということですね。…補足したいことも多々浮かびますがここでは深めずにおきます。