音楽の編み物

シューチョのブログ

三つの G は涙の粒である。その雫が Es のフェルマータである。

音楽テーゼ集
 
(10) 三つの G は涙の粒である。その雫が Es のフェルマータである。
 
 
───
  交響曲第5番ハ短調作品67(“運命”)
 
 ベートーヴェン自身が第1楽章冒頭動機について「運命はこのように扉を叩く」と言ったとか言わないとか。「実話かどうかに拘らず、“運命”という呼称が半ば標題のように用いられるのは、それが作品の本質の一面をよく表わしているからだ。」という解説が無難なところか。もう少し“通好み”に行くなら「“運命”と呼ぶのは日本だけで、本場のドイツ、ヨーロッパではこの曲の曲名・呼称として“運命”の語を使うことはめったにないらしい。」となる。私の中でもこの作品は“運命”ではない。ただし、私の意識は本場主義・衒学的趣味からは遠い。「本場」や「伝統」を重んじていては、誰もとても今回のような演奏はできまい。逆に、主観的演奏を通じて作品に普遍的生命を与えたい、それには主観の自由を制限するような標題(めいたもの)を(少なくともいったん)脇に置こう、というのが私の考えである。そして、そういう演奏を多くの人に聴いて頂きたいと思えばこそ、お知らせにはあえて“(あの)運命(をやります)”と載せることにもしたのであった。
 
 第1楽章には“悲しみの情熱が渦巻く。冒頭動機は、涙の粒がフェルマータで雫になって落ちるように私には見える。第2主題は笑み、涙の滲む眼で浮かべる微笑みの表情である。
 
 無口で静かな第2楽章。変奏される第1主題と変奏されない第2主題が交互に表れる。第1主題は雄弁であるよりは訥々としており、第2主題の管楽器による高らかな吹奏も、短く、すぐに静まって、どこかしら寡黙である。「心の晴れぬまま窓を見ると外は晴れていていくぶん救われる」ような、“夕暮れの明度を持つ音楽である。
 
 第3楽章はベートーヴェン交響曲スケルツォ中、第9のそれと並んで最高傑作ではないか。トリオを挟んで二重三重の反復を伴うスケルツォメヌエットの楽章は作品もその演奏も形式美に偏りがちであるが、第5や第9で形式を超えた内容の濃さを感じるのは、“短調のドラマ性”に拠るのだろうか。第4楽章へと導く“音のドラマ”は特に普遍的な力を持つ。このような音楽がベートーヴェンの作曲前にはこの世に存在しなかったということがもはや想像できないほどである。スケッチ譜を見るとまだまだ人為的過ぎてお世辞にも名曲にはなりそうにないのに、推敲という人為を重ねて逆にここまでの自然さ(普遍性)を得た、というところが不思議でもあり偉大でもある。そしてそれを受けて続くにふさわしい第4楽章。充実しきった音の大波が、清も濁も喜怒哀楽もすべて包み込み、押し寄せ進む。けれども、これだけ圧倒的でありながら、ベートーヴェンの書く音というのは、決して外面的には鳴り切らないようにできている。暗さなのか寂しさなのか、その“外に出ない”音、直に人間の内面へと向かう(「心よりいで、心に至る」)音に、泣き出したくなるほどの魅力が溢れる。
 
 誤解のないように補足するが、「初めに(“悲しみ”“夕暮れ”などの)イメージありき」で音楽を作ってきたのではない。そういった、標題音楽に対するようなアプローチとは因果関係が逆で、ミクロにはアーティキュレーションの有無からマクロには楽章間の調性の相対関係まで、スコアを純音楽的に読み解いていくうちに、自分なりのイメージの方向が後から象られてきた、という方が近い。ただ、この曲ほど一定のイメージ(運命、苦悩、闘争、勝利、…)に固まった音楽もないのではないか、そこに一石を投じたい、という思い・思惑を持ち続けてきたことも正直に告白しておく。が、単にアンチテーゼを示すことを目的にする態度ほど音楽をつまらなくするものはないだろう。作品にはあくまで、新しく、しかし面白くたのしく深く、関わっていきたい。
 
(2002年)